ペテロの手紙 第T

光の主に招かれて

Tペテロ 2:4−10
詩篇 118:21−24
T 神さまのことばに

 2:4-10からです。ここは1:22-2:3の続きですが、先週のところを少し繰り返してみましょう。小アジヤ教会の人たちが直面している迫害には、恐らく、一部の人たちだったでしょうが、人間の知恵、経験、善意、教育(そう言えば、聞こえはいいですが)など、実際は世間の常識との妥協といった、目先のごまかしで信仰を守り通そうとする在り方がありました。しかし、イエスさまを信じる信仰とはそのようなものではありません! 私たちの信仰は、唯一、神さまのことばの価値観に支えられ、しかも、生まれたばかりの乳飲み子のように、その神さまのことばに聞いていくことだと勧められたのです。

 ところで、当時、神さまのことばは具体的に何を指していたのでしょうか。勿論、旧約聖書もですが、既に書かれていたマタイ、マルコ、ルカの福音書やパウロの手紙などもそれに含まれていたようです。聖書信仰という言い方があります。それは、旧約39巻、新約27巻と66巻の聖書(正典・カノン)が信仰の唯一の規範としての神さまのことばであると受け入れる信仰です。では、聖書を神棚に置いて拝んでいればそれが聖書信仰かというと、そうではありません。聖書が指し示すお方、イエスさまを聖書の証言の通りに信じることです。新約聖書で最後に書かれたヨハネの福音書に、「初めにことばがあった。ことばは神であった。……そのことばは人となった」(1:1-14)とあって、神さまのことば=イエスさまという図式が証言されています。これは一世紀も終わりのAD95〜6年頃のことで、神さまのことばがイエスさまを指すようになったのは、それ以後のことと思われがちですが、同じ証言が既にこのペテロの手紙に見られるのです。初代の教会に、イエスさまを神さまのことばとして受け止める「神学」が芽生えていたということでしょう。今朝はそのことを念頭に、神さまのことばの内容、その第一義はこれだというペテロの証言に踏み込んで聞いてみたいと思います。その神さまのことばに、私たちがどう扱われているかも含めて。


U 家造りらの捨てた石が

 「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」(2:10) これは、「主がいつくしみ深い方であることを味わった」(3)の繰り返しですが、他にも何回か言葉を変えて言われており、この手紙の中心主題と考えていいでしょう。「人には捨てられたが神の目には、選ばれた尊い生ける石です」(2:4)と、今、ペテロは、その中心主題に沿って、イエスさまの福音の最も奥深いところに踏み込もうとしています。彼は、イザヤ書や詩篇のいくつかのことばを引用しながら、イエスさまが捨てられたという十字架の持つ重い意味を展開しようとしています。それを聞いていきたいのです。

 詩篇118:22からの引用、「家造りらの捨てた石が礎石になった」(7)に注目してください。マタイ21章に、同じものがイエスさまのことばとして記されています。きっと、初期の教会で、イエスさまは人から捨てられた礎石であると、広く語り伝えられていたのでしょう。ペテロがそれを書き留めたことから知られるようになったと思われます。「礎石」、石造りの家で二つの壁が交差するその土台に、専門の石職人が選び抜いた大きくて丈夫な石を最初に据えるのですが、これが最も重要な家の土台になるのです。最初にいくつかの石を集めておき、最終的にその中から一つを選びます。素人目に頑丈そうに見えても、ちょっとでもひびが入った石は捨ててしまいます。礎石にひびが入っていると、家全体が弱く長持ちしないのです。家とは神さまの選びの民イスラエルを指しており、イエスさまが「捨てられた」とは、その意味においてでしょう。イエスさまがメシヤであり救い主であるということをイスラエルはどうしても受け入れず、ついに十字架につけてしまうのですが、ひびが入ったような状態、それは、神さまご自身であるイエスさまが罪ある本物の人間になられたことを意味するのでしょう。そして捨てられたのです。それは十字架を指し、そのイエスさまが、人には捨てられたが神さまに選ばれた尊い生ける石・私たちの救いであったとペテロは告白しているのです。イエスさまが神さまのことばであったとは、そのような告白の中で実感し得る信仰の事柄でしょう。


V 光の主に招かれて

 私たちは、そのお方から招かれているのです。ペテロはここで、「主のもとに来なさい」(2:4)と、その招きをはっきりさせようとしているのでしょう。信仰において、イエスさまがどういうお方であったかをはっきりさせることは大切でしょうが、それだけで済んでしまうものではありません。

 世界中の教会で礼拝出席者数が減少しているそうです。原因はいろいろでしょうが、〈信仰を捨てたわけではないが、教会には行かない〉という人たちが増えていることは確かです。最近の教会に問題が多いのも事実です。牧師や役員同士の争い、或いは、教会員同士のいさかいといったものも多いでしょう。さしずめ私などには、〈説教がむつかしい〉という苦情が聞こえてきます。しかしそれは、人間の問題ではないでしょうか。昔のことですが、最初に牧会した教会で、「先生に挨拶したのに、知らない顔をされた」と人づてに聞かされたことがあり、悩みました。夕方、街で少し離れたところから挨拶されたらしいのですが、全く気づかなかったのです。気になっていたこともあって、眼鏡屋さんに駆けつけました。かなり強度の近視でした。以来、眼鏡が手放せません。しかし、イエスさまの教会とは、その程度の人間レベルのところなのでしょうか。教会のそんな人間の部分に失望した方たちに聞いて頂きたいのですが、教会は決して〈つまづきの石〉ではないのです。

 9節に、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」とあります。種族も国民も民も一つの群れを指しているようです。神さまの選びの民イスラエルに対して、〈新しいイスラエル=イエスさまの群れ〉を言っているのでしょう。王である祭司という言い方は、いくらか推測を交えますと、この表現が当てはまるのは、恐らく、〈大きな家〉を意味するエジプト王パロではなかったかと想像します。すると、種族、パロ、国民、民というところに、選ばれた、祭司、聖なる、神の所有されたと形容詞をつけることで、このところのペテロのテーマ、霊の家、神さまの国、教会に招き出された者が浮かび上がって来ます。それはあなたがただと、これがペテロの宣言なのでしょう。そして、その宣言は、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった」と、更に膨れ上がります。人に捨てられたイエスさまが、実はそのような栄光のお方だったと、ペテロは、変貌山のイエスさまやよみがえりのイエスさまにお会いしたことを思い出しているのかも知れません。「光の中に!」、びっくりするような招きです。罪を赦して頂くことでさえ、天国の隅っこに入れられる光栄を感じているのに、イエスさまの招きは、それ以上の輝きに満ちたものだったのです。教会は人間の思いが集まるところではなく、神さまの栄光の輝くところ、「光」なのです。そこに招かれている光栄をしっかり受け止めて頂きたいと思います。それがイエスさまを信じる信仰なのです。

 5節「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」と言われます。私たちが築き上げるのではありません。私たちはイエスさまという礎石の上に組み合わされる小石なのです。とがったところは削られ、いびつな面は平らに磨かれ、整えられた者になっていく。そして、神さまの国である教会が、小石同士の適合から建ち上がっていくのです。もちろん、人格も磨かれていく必要があるでしょう。しかし、イエスさまを信じる信仰だけが、イエスさまの聖なる群れを組み上げていく私たちの最高の共通部分なのです。光にふさわしく、その信仰に磨きをかけていきたいと願います。