ペテロの手紙 第T

神さまのことばを

Tペテロ 1:22−2:3
イザヤ 40:6−8
T 信仰の純粋培養か

 先週、ペテロの勧めから、神さまの聖なることに倣って、私たちも聖なる者とならなければならないと聞きました。ローマ人の迫害にあっている人たちは、十字架にかかられたイエスさまがその苦難を見ておられ、支えてくださるのだから〈信仰に励もうではないか〉と教えられました。「地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」(17)と言われていますが、それがイエスさまを信じた者たちの生き方の特権だと、ペテロの声が聞こえてくるようです。この世との戦いの中で、これがペテロが勧める第一の結論でしょう。

 しかし、キリスト教2000年の歴史の中には、何回も何回も繰り返されてきたもう一つの問題があり、ペテロはすでにそのことにも注目しているようです。今朝はそこから聞いていきましょう。

 初めに、そのもう一つの問題を指摘したいと思います。「聖なる方にならって、あなたがたも聖なるものとされなさい」と言われる、この〈聖なるもの〉についてですが、信仰者たちはこれまで何度も聖ではなくなってしまった教会の状況に絶望し、新しく聖なる場所を造り上げようとした歴史を持っています。確かに、教会には、世的な権力を持って、聖なるところではなくなってしまった長い時代があります。例えば、暗黒時代と呼ばれた中世の時代です。そんな人間の垢にまみれ、聖なるものを失った教会に絶望した人たちは、信仰だけに生きる別天地を夢見ました。修道院です。信仰の純粋培養とでも言ったらいいでしょうか。〈山に登ってこの世から自分たちの信仰を隔離してしまう〉在り方です。ところが、しばらくそんな別世界にいますと、やはりこの世との関わり合いの中で生きるべきであると考え、山を降りて来ます。キリスト教ばかりではありません。宗教というものは山に登ったり、降りたり、そんな信仰の守り方をずっと続けてきました。小アジヤの教会もこの時期に、同じ問題が燻り続けていたのです。それは、現代も抱えている問題であり、そんな左右に揺れ動くものを併せ持った、私たち一人一人の問題でもあると思うのです。


U 人間の言葉が

 「あなたがたは、真理に従うことによって」(22)と言われます。真理とはギリシャ的な言い方で、ペテロにはふさわしくない気がしますが、この手紙の受取人の多くは、ギリシャ語を日常的に使う人たちでした。ローマ人の教養はギリシャ文化でしたから、〈真理〉と聞いて、全く違和感ありません。その人たちに向かってペテロは、本当の真理を知らせたいと願いました。「あなたがたが新しく生まれたのは……神のことばによるのです」(23) 真理とは神さまのことばを意味すると、ペテロは言いたいのではないでしょうか。小アジヤの教会に起こっているもう一つの問題は、その〈神さまのことば〉に関するものであると感じつつ、ペテロは筆を進めているのです。

 迫害に直面し、小アジヤの教会の人たちは「どうしたら信仰を守り通すことができるか」と悩んでいるのですが、その中のある人たちは、迫害者たちと〈どこかで折り合いをつけなければ〉と、妥協策を考えていたようです。2:1に「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて……」とあります。これは、そんな妥協案を考えている人たちの意見を集約したもので、一見それは悪いことのように聞こえますが、恐らく、それほどひどい悪口雑言ではありませんでした。むしろ、世間常識の範囲内で信仰のことが語られたと考えて良いでしょう。ローマ人の価値観を適当に受け入れたのです。彼らの遊びを不品行だと言って切り捨てない。ある人たちにとってそれは、真理に適った信仰の守り方でした。本当は、困った受け止め方だと思うのですが、「それが真理である」と言われますと、ギリシャ文化の中で育った人たちが、そこに悪意やごまかしを見抜けなかったとしても不思議ありません。それを見抜くことは本当にむつかしく、不可能に近いことでしょう。そのような意見は、むしろ、教会を大切にしようという、敬虔な知恵ある意見に聞こえたかも知れないと思うのです。

 大切なことですから繰り返しておきたいのですが、現代の私たちにも同じようなことが起こり得ます。信仰を守るということで、「ああしたら……」「こうしなければ……」と、クリスチャン同士の会話になったり、時には偉い先生が書いた信仰書やそのような先生方からのアドバイスがあったりします。私たちが多くの祈りに支えられて来たことを考えますと、そのような経験深い先輩方に相談することも時には大切です。しかし、人と人との間には時として多くの誤解があり、意図せずにそれが悪意になったり、ごまかしになったり、また、悪い判断にもつながると、ペテロはそれを言っているのでしょう。大切にしなければならないのは、神さまのことばであり、人間のことではないのです。そのようにペテロのメッセージを聞いていきますと、私たちがなぜ神さまのことばに聞かなければならないのか、お分かり頂けるでしょう。


V 神さまのことばを

 イエスさまを信じる信仰で、私たちがもっとも警戒しなければならないことの中心は、人間の言葉ではないでしょうか。人と人とは「言葉」を挟んで向き合っていますが、しばしば、それが厄介な誤解や問題を生み出してきました。その「言葉」に傷ついたことのある方は、きっと多いと思うのですが……。悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口とあるのは、もちろん私たちの心の中の問題ですが、それが、教会内に問題として浮上して来たのは「人の言葉」によってであると、ペテロは洞察しているようです。4〜5年後の第二の手紙に「にせ教師が(持ち込んできた)滅びをもたらす異端」(2:1)とありますが、同じ問題が続いていたことを示しています。人の言葉は何とも頑固なのですね。

 教会の中に吹き荒れる「信仰の世俗化」(と言ったらいいかと思うのですが)に対して、心を痛めながらのことだったのでしょう。彼はまず「心から熱く愛し合いなさい」と勧め、言葉ではない、その愛こそ、人と人との間の最も大切なものなんだよと囁きます。しかし、イエスさまを信じた者たちが聞くべきことばがあります。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」(1:23) 騒がしくなりつつある人の言葉を〈朽ちる種〉と言っているのでしょうか。それとも、イエスさまが話された「種蒔きのたとえ」を思い出しているのかも知れません。私たちの中に100倍、60倍、30倍と良い実を結んでいくものは、イエスさまの福音のことば、「主のことばはとこしえに変わることがない」と言われる、イエスさまご自身であるというペテロの証言に聞こえます。

 しかし、誤解しないで頂きたいのですが、私たちの信仰は、修道院のようなところに閉じ籠もって、純粋培養されなければならないようなものではありません。教会は修道院のような信仰の聖域ではないのです。人間の問題が山積されているところと言っていいでしょう。しかし、だからと言って、その解決が人間の言葉によってされていいというのではないのです。私たちは神さまのところに来たのですから、頼るべきものは神さまのことばであると、その中心点をはっきりさせておかなければなりません。当時は、まだ新約聖書といったものが形になっていませんでしたが、マタイ、マルコ、ルカの福音書やパウロの手紙などがすでに出回っており、旧約聖書と共に、それらのものが回覧されていました。ペテロが滞在しているローマで生まれた新しいクリスチャンたちは、その聖書に夢中になっていました。「純粋なみことばの乳を慕い求めなさい」(2:2)とは、そのことを言っているのです。イザヤ書40章8節にこうあります。「私たちの神のことばは永遠に立つ」 その神さまが「私たちのことを心配してくださる」のです。その神さまのいつくしみ深いことを、イエスさまの十字架で私たちは既に味わって来たではないかと、ペテロのこの証言を心から聞いていきたいと願います。