ペテロの手紙 第T

信仰の励ましを

Tペテロ 1:13−21
詩篇 121:1−8
T 迫害者の価値観と

 ローマ人の迫害に会って、どうしようかと悩んでいる小アジヤのクリスチャンたちが、それでもなお神さまを賛美し、他の人たちとは違った生き方の中で喜びを持ち続けています。1:3-12節から2回に分けて2つのことをを見てきました。ペテロはここで、順序を取り違えてはならないと語っているのでしょう。神さまとのことを私たちは、「神さま、助けてください」というところから始まるように思いがちですが、それは、ただ、「あれをしてください」、「これをお願いします」という神さまへのお願いからではなく、神さまへの賛美とイエスさまを信じる喜びから、私たちは神さまに近づいて行くのです。そのような生き方こそ、「私たちを心配してくださる神さま」に思い煩いをすべて委ねる者の生き方であり、〈神さまの住まいに招かれている者〉の信仰に生きる在り方だと思うのです。

 ペテロは第一に信仰者のその基本的な在り方を示した後、「どのようにして迫害という苦難に対処したらいいのか」という本題に入っていきます。その苦難の内容から考え始めましょう。

 ペテロは、彼らの苦難をかなり詳しく知っていたようです。彼らからの相談は、手紙などではなく、ペテロに派遣された使者が直接訴えたものと思われます。使者は迫害にあっている一人だったのかも知れません。14節に「以前あなたがたが無知であったとき」とありますが、それは、受信人に異邦人からイエスさまを信じるようになった人たちが多かったのではないかと教えてくれるようです。彼らを襲っている迫害は、ローマ人との価値観の違いから生じたもののようです。恐らくそれは、現代の私たちにも通じることでしょう。〈さまざまな欲望〉とありますが、ローマ人には、現代人の私たちにも共通の、物質主義・刹那主義的な生き方がついて回っていました。18節には「金や銀に」頼る生き方が描かれていますが、お金だけではなく、自分たちの欲望のままに生きる快楽主義・現実主義こそローマ人の価値観であったと言えるでしょう。クリスチャンになったかつてのローマ軍人たちが、それに対して一線を引いたことから、迫害という出来事が始まったのではないかと思われます。「あいつは俺たちから離れてしまった。彼を俺たちのところに引き戻さなくては」という強力な誘いがあったのでしょう。かつての仲間が別の生き方を始めている。彼らが酒や女や賭事を避けることで、自分たちの生き方が全面的に否定されたように感じたのでしょう。誘っても誘っても自分たちの世界には戻って来ない。そればかりか、自分たちの仲間を一人また二人と教会に引き入れているではないか。当たり前としてきたローマの価値観に立って、彼らが迫害者に転じていったのも当然だったと言えるでしょう。


U 信仰の戦いを

 これはペテロからのアドバイスです。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(13)とあります。〈キリストの現れのとき〉とありますが、それがどのくらいの期間なのかは分かりません。ともかく、待ち望む期間があり、その期間を心を引き締め、身を慎んでいなさいと勧められているのです。〈引き締め〉という言葉は、帯を締めるという意味で、当時、ローマ人の服装は大きな布でふわっと全身を覆っていたのですが、少し小振りの着物にして裾を短くし、それに帯を結んできりっと身を引き締めますと、それは甲冑の下のローマ兵士の服装です。信仰は戦いであると何回も聞いて来ましたが、もう一度エペソ書のことばを聞いておきたいと思います。「堅く立つことが出来るように、神のすべての武具をとりなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をみな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また、御霊の与える剱である神のことばを受けなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさいそのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(6:11-18)

 〈身を慎み〉とあります。これがペテロの勧めようとしていることの中心なのでしょう。クリスチャンの戦いぶりを、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」とあるレビ記から引用しつつ、ペテロは、「聖なる方にならってあなたがた自身もあらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(15)と勧めるのです。「以前、あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に……」と14節にありますが、これは既に述べたように、押し迫って来るローマや現代の現実的なだけの価値観に妥協してはならないということでしょう。つき合いが悪いと言われ、時には仕事にも差し支える場合があります。しかし、それでも、クリスチャンとしての価値観に生きるという旗印をしっかりと掲げるのです。神さまの聖に倣うということは、まわりの価値観を斥けることだけではなく、聖なるもの、つまり、そのようなものから自らを神さまのものとして分離しておくことであると教えられます。〈身を慎み〉は、そのようなところで理解しておきたいことなのです。


V 信仰の励ましを

 もう一つのことを見ておきたいのですが、「また、人をそれぞれのわざに従って公平に裁かれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」(17)とあります。私たちの信仰の歩みは、神さまを見つめながら歩んでいく私たちの生き方でしょう。しかし、私たちが神さまを見る前に、まず、神さまが私たちを見ていてくださると覚えて頂きたいのです。私たちはしばしば、苦しみの中で祈ったり叫んだりしますが、その前に、「神さまが私たちのことを心配してくださる」のです。神さまが見ていてくださるのだから、その神さまを見つめながら……というのが、〈恐れかしこんで〉ということであると理解しなくてはなりません。神さまがいるかどうか、それが生き方の分かれ道なのです。恐らく、ローマ人の金銭への執着や快楽への欲望が巾をきかせている中で、クリスチャンたちの「神さまは生きていらっしゃるのだから、その神さまにふさわしく」という価値観は全く受け入れられないものだったでしょう。それはまさに「神は死んだ」とする現代そのものでもあろうと思われます。しかし、そんな現代にも、眠っているときでさえ、私たちを心配し、見つめ、守って(詩篇121:1-8)くださる神さまがいらっしゃるのです。その神さまの目を感じつつ、「聖なるものとされなさい」と聞いていく、そんな生き方をと願います。

 そして、私たちは「本来、聖なる者ではない」と覚えていきたのです。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは……」(18) むなしい生き方とは、ローマ人ばかりではなく、私たちの汚れある生き方そのものを指していると聞かなくてはなりません。19節にイエスさまのことが「傷も汚れもないキリスト」と言われています。その傷や汚れは、私たちのむなしい生き方そのものではないかと、これはペテロ自身の告白であると感じます。無学な漁師であったペテロが、十字架におかかりになる前のイエスさまに師事し、むつかしいレビ記など専門家向けの旧約聖書にも通じるほど、イエスさまからたくさんのことを教えて頂きました。しかし、彼はそんな生身のイエスさまの思い出にはほとんど触れず、十字架に自分の罪を贖ってくださったそのイエスさまを大切にしています。ペテロ自身、十字架に罪を赦されたという思いが強かったからでしょう。十字架とよみがえりのイエスさまは、そんな汚れの中にある私たちを贖い出してくださいました。これは、イエスさまに罪を贖われたペテロから、強く信仰に立つようにとの励ましであり、告白であると聞こえてきます。たとえ私たちが苦しみのどん底にいるとしても、そこに主がともにいてくださるのです。ペテロの励ましをそのところで聞きたいですね。