ペテロの手紙 第U

主の前に膝をかがめつつ(37・最終回)

Uペテロ 3:17−18
ゼカリヤ 2:10−13
T 隙を窺う者たちに囲まれた現代に

 ペテロの手紙、最後の3:17-18になりました。17節からです。「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい」 今、ペテロはようやく、この手紙の中心主題である神さまの永遠に招かれる幸いを語り始めていました。しかし、これまで多くの言葉を費やした異端への警戒を、ここで繰り返さずにはいられなかったのでしょう。「このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、……自分自身の堅実さを失うことにならないように」と、信仰者たちへの優しさに溢れながら、再び信仰の警鐘を鳴らします。異端の怖さを十分承知していたからでしょうね。この異端は、どうやって迫害を切り抜けようかということから、ローマの価値観を受け入れる現実主義に立ち、やがて、イエスさまを否定してしまうのです。現代でも、ほんの少し前まで、聖書には神話が多いのでその部分を取り除こうとする〈聖書の非神話化〉を中心とする自由主義神学が広まり、教会は力を失いかけていました。彼らは、キリスト教の土着化や世俗化を標榜し、聖書を神さまのことばではないとして、イエスさまの十字架の贖罪さえ否定し、多くの人たちが信仰を失っていきました。そのことを考えてみますと、「このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれないように」というペテロの心配が、現代の私たちにとっても、決して無関係ではないとお分かり頂けるでしょう。そのような神学や思想や哲学のたぐいは、これまでにも何度もその姿を変えて出現してきましたし、今後ますます巧妙な惑わしとなって、私たちの中に入り込んで来るだろうと予測されます。十分に気をつけなければならないことです。


U 力を込めて祈る者に

 「自分自身の堅実さを失うことがないように」とあります。堅実という言葉は、新約聖書中、唯一ここだけに用いられているものですが、かつてペテロは、十字架にかかる直前のイエスさまから、「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31:-32)と言われました。〈堅実〉とは〈力づける〉という言葉から来ています。私の想像ですが、これは個人の心がけというより、教会ぐるみで信仰の戦いをしていくのだという、将来に渡った教会の姿勢が語られている気がするのです。互いのために祈り、励まし合う姿勢が問われているのではないでしょうか。

 少々脱線しますが、考えてみたいことがあります。クリスチャンの祈りにイメージされる〈敬虔〉ということです。日本人は敬虔という言葉に、神さまを敬い、礼儀正しく、悪いことは一切行わず、言葉にも自己主張がなく、愛情が込められている……、といったイメージを持っているようです。「あの人は神さまみたい」と言われるイメージ、修道院的敬虔と呼んだらいいでしょうか。中世の教会が世的な権力と結びついていた時代に、世俗を離れ、信仰の純粋培養のように清貧と禁欲の中に生きて、しかも謙遜な人たちがいました。そのような人たちを育てた修道院が、当時の教会を堕落から救ったと考えていいでしょう。教会は彼らを聖人と呼ぶようになりましたが、そのような「聖人」というイメージに抵抗があったからでしょうか。実は私はその種の敬虔をあまり好きになれませんでした。クリスチャンとはイエスさまを十字架につけたほどの罪人であり、そのような者たちが自らを敬虔な者などと断じて言うことはできない。自らの敬虔を否定する、それこそ本当の敬虔ではないかと思っていたからです。ところが家内に言われました。「自分にそのような敬虔さがないから、そのような在り方を否定するのではないか」と。まさにその通りでした。自分は敬虔な者ではないと言いながら、実はその敬虔に生きているという高慢!! 敬虔にいくつもの異なったものがあるのではありません。「神さまとともに歩む信仰の歩み」こそ、敬虔と呼ばれるものであり、それは〈キリストに倣った〉聖人たちの歩みそのものではないかと、家内の言葉に知らされた思いがします。祈りを深めていきたいと思わされます。信仰者の敬虔の第一歩は、そのような祈りにあるのでしょう。


V 主の前に膝をかがめつつ

 ペテロからもう一つのことを聞いてこの手紙を終えましょう。18節からです。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように」 これは、小アジヤの教会を含めた全教会に宛てて、イエスさまに召し出されて使徒となったペテロから、力を込めての最後のメッセージであり、特に後半は彼の祝祷かと思われます。祝祷はクリスマスの〈マス〉を引き継いだもので、礼拝の終わりに、集った会衆を祝福するものです。〈クリス〉は言うまでもなくキリスト、〈マス〉は祝福を意味します。イエスさまの大命令に「全世界に出て行ってすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:16、マタイ28:19-20)とありますが、初期の教会は、礼拝の最後に会衆が立ち上がってこの命令を聞きました。〈マス〉は「出ていきなさい」という部分から来たもののようです。きっと、「今、礼拝で聞いた福音のみことばをあなたがたも証しするのです。さあ立ち上がってここから出て行きなさい。わたしがあなたがたとともにいます」という意味が込められ、祝祷となったのでしょう。

 今ペテロは、伝道者として歩いて来た40年近くの日々を思い出しているのでしょう。殉教を間近に控えたこの時期、迫害で失われた多くの尊い魂に代えて、新しい信仰者たちが続々と誕生していました。伝説によりますと、教会が空っぽになったことで、ペテロは失意のうちにローマを立ち去ろうとします。しかし、アッピア街道を少し出たところで、よみがえりのイエスさまに出会い、励まされ、踏み止まりました。ローマに戻ったペテロは迫害をものともせず、懸命に福音を宣べ伝え、わずか1〜2年で、ローマの教会には、以前にも増して多くのクリスチャンたちが加えられるようになりました。それは、イエスさまの祝福があっての道のりであり、ペテロのこれまでの歩みのすべてが凝縮されたような日々だったでしょう。主であり救い主であるイエスさまに一切の栄光がありますように。信仰者の生き方はそこに尽きるのです。聖書を読むことも、祈ることも、共に礼拝を守ることも、イエスさまの恵みがなくては能わぬことです。そのイエスさまの前に膝をかがめながらの生き方、それこそ敬虔の中身ではないかと思うのです。

 今、一つのことを願っています。イエスさまの恵みと知恵において成長していきたいということです。聖書を力を込めて読み進んでいきたいと願います。そして、その力、癒し、慰め、がメッセージに込められていくように。預言者ゼカリヤは言いました。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」(2:13) 主の前に静まる、それは信仰者の持つ特権でしょう。そこから恵みと知恵を頂いて、信仰者として成長していきたいと願います。