ペテロの手紙 第U

御声に聞き従って(36)

Uペテロ 3:14−16
ヨシュア 24:24
T 惑わす者に信仰の隙を

 ペテロ第二の手紙を、1章1節から15回に細かく区切って見てきました。あと2回ですが、このところ各節の枝葉に拘り、ペテロが一貫して言いたかったメッセージを聞くことが出来なかったようです。この最後の部分で、何とか彼の一番大切にしてきたメッセージを聞き取ることが出来ればと願います。第一の手紙に比べ、異端への断罪も、彼らに引き込まれる弱さへの警告も、襲いかかって来る終末の恐ろしい事態も、過激とも言える内容だったと感じますが、その陰に隠された彼の優しさと、何よりもその信仰から教えられたいのです。今朝は14-16節からです。

 14節は、「そういうわけですから、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい」と始まります。〈愛する人たち。平安をもって御前に出られるように励みなさい〉がここの中心なのでしょうが、ここに浮かんで来る二つの事柄を見ていきたいと思います。第一に、〈そういうわけですから〉と始めているところです。これは、ペテロがこの手紙で力を込めて語ってきた、信仰の警鐘と聞くべきでしょう。にせ教師たちは今、イエスさまを否定しています。イエスさまの十字架の救いも、よみがえりも、またその再臨さえ否定しているのです。教会はその教えに混乱し、多くの正常な信仰者たちが彼らの誘いに巻き込まれたことから、ペテロの言葉がきつくなっていると思われますが、彼らの教えは断固排除されなければならないと、ペテロは聞いて欲しいのです。それがこの手紙の一つの中心でした。「しみも傷もない者として」とありますが、これは「彼らはしみや傷のようなもので」(2:13)とあることを念頭に置いたものと考えられます。それは、にせ教師たちがクリスチャンの仮面をかぶって教会の愛餐会に参加している様子を指すのでしょうが、彼らは、信仰者らしく振る舞いながら、その実、隣人の様子を窺い、隙あらば彼らを快楽の世界・欲望を満たそうとする自分たちの仲間に誘い込もうとしているのです。信仰者が判断の基準を失い、そのような声に誘われる隙を作ってはならないと、厳しいペテロの声が聞こえて来るようです。


U 罪赦された者の平安を

 14節でペテロが語るもう一つのことに入る前に、考えてみたいことがあります。今、この手紙でペテロが繰り返してきた信仰の警鐘を、「しっかりと心に留めておきなさい」と聞きました。イエスさまを信じる信仰は、決して〈らしさ〉を装った仮面ではないのです。偽物の罠に陥ることがないように、何を基準に信仰を守り通したらいいのかと、ペテロは15-16節で〈聖書〉について言及します。それが私たちの信仰の基準なのですから。しかし、激しさを増す迫害下で、巧妙な罠を仕掛けてくるにせ教師たちの異端をどれほど警戒しようとも、罠に陥らないようにというだけでは、その信仰が守り切れるわけがありません。そもそも、「異端を警戒しなさい」というのがこの手紙の中心主題なのでしょうか。14節をいろいろな翻訳で読んでみましたが、どうも強調点が微妙に違うようです。「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(新共同訳)この訳では、〈励みなさい〉に二つの要素が含まれてはおらず、ただ、〈平和に過ごしていると神に認めていただけるように〉だけに結びついています。この訳者は、きずや汚れがない状態を、〈愛餐会に仮面をつけて参加するにせ教師のようにではなく〉と言うのでなく、むしろ、イエスさまの十字架に罪赦されたことに重ね合わせているようです。ペテロにとって何よりも大事なことは、実はそのことであって、迫害下にあるすべてのクリスチャンたちに、イエスさまの恵みの中で生きて欲しいと願っているようです。

 前置きが長くなりましたが、14節にあるもう一つのことを見たいと思います。「このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから」とあります。細かなことを言うようですが、〈このようなこと〉(複数形)が何を指しているのか、つまり、彼らが何を待ち望んでいるのかを聞いていきたいのです。13節に「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいる」とあり、それは〈新しい天と地〉にかかると考えるのがごく自然でしょう。複数形になっているのは、新しい天と地、そこに招いてくださる神さまの約束、そこでイエスさまにお会い出来るという、信仰者の希望に関わるすべてを含んでいるからであると思われます。ですからペテロは、「愛する人たち。平安をもって御前に出られるように励みなさい」と勧めるのです。この平安は、イエスさまの十字架に罪を贖われた者の平安であり、神さまの希望に招かれているという信仰の確信を持つ者の平安です。その平安を、些細なまどわしで失ってはなりません。


V 御声に聞き従って

 続いてペテロは「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(15)と言います。これは少し前に言った〈火による破滅の終末を遅らせておられる主の忍耐〉(3:9)の繰り返しですが、ここでは〈救い〉のほうが強調されています。ペテロの願いは、私たちが異端などのまやかしに引きずられて破滅の道を突き進んで行くのではなく、十字架に死んでくださったイエスさまの救い、私たちを招いてくださる天国の希望に出会って欲しいということなのです。

 そして彼は、パウロの手紙にも触れながら、何が信仰の導き手であるかを明らかにしようとしています。「それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています」(15-16) この最後に来て、彼がもう一度聖書を持ち出してくるのは、聖書のメッセージを曲解してはならないと、信仰の警鐘を繰り返しているようですが、むしろ、聞くべきところをきちんと聞いていきなさいと勧めているのでしょう。ペテロは「書き送ったとおりです」と、小アジヤの教会がパウロの手紙をしっかり受け止めたことを評価します。ただしその中に、自分の都合に合わせて聖書を利用する者がいるのです。荒野でイエスさまを試みた悪魔でさえ、聖書のことばを引用しました。「あなたが神の子なら飛び降りてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」(マタイ4:6)

 ここでペテロは、どのようにしたら聖書を正しく受け止めることができるかについて、具体的に触れてはいません。ただ、少し想像力を加えるなら、初期キリスト教があれほど世界を席巻し、ついには迫害者ローマさえ屈服させていった力が伝わって来るように感じられます。ここでペテロが、パウロや他の使徒たちの手紙を、はっきり旧約聖書と同格に並べたことに注意して頂きたいのです。二世紀に入ると、使徒後教父と呼ばれる教会指導者が出て来ますが(例えば、ユスティノス)、彼らは、まだ完成していなかった新約聖書も含め、聖書を徹底的に彼らの教えの基盤としていきました。それは、ペテロ時代の教会指導者たちが確立していった聖書信仰を受け継いだことによるのであろうと思うのです。教会ぐるみで聖書から聞いていった姿勢が感じられます。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」(ヨシュア24:24)とあります。その姿勢に、私たちも、礼拝で語られるメッセージに熱い思いを寄せる姿勢を重ね合わせていきたいと願わされます。