ペテロの手紙 第U

神さまへの賛美に心溢れて(35)

Uペテロ 3:10−13
イザヤ  65:17−19
T 永遠のいのちを獲得するために

 第二の手紙3章10-13節からです。先週の8-9節で、ペテロは、聖徒たちが招かれる神さまの永遠という、新しいテーマを語り始めました。しかし、ここに来てペテロは、7節の「火によって滅ぼされる」という恐ろしい終末に再び戻ります。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(10) ペテロが終末の様相をこのように〈火によって滅亡する〉と言うのは、黙示録のように神さまからの啓示を受けたのではなく、旧約聖書や十字架にかかる直前にイエスさまがオリーブ山で話されたことなどをもとに、長いこと調べ、考えに考えて得た結論だったと思われます。イザヤ66:15-16に「主は火をもってさばかれる」とありますが、その聖書信仰の姿勢を、私たちもしっかり学んでいかなくてはならないと思わされます。彼は、その結論をもう一度ここに持ち出し、永遠への序曲としてどうしても通過しなければならない終末を、明確にしておかなければならないと感じているのでしょう。

 彼は、11節でクリスチャンたちの生き方に言及し始めます。「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれだけ聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」 永遠のいのちを獲得するために、信仰者たちは、現在の生き方が問われているのです。私たちは今、そのくぐり抜けるべき最初の難関として、宇宙(地球環境)の大変動という終末の入り口に立たされています。そのような終末がいつやって来るか、それは、「そのようなものはない」と主張したい偽教師たち異端や、迫害に苦しみながらイエスさまにお会いしたいと望む正常な信仰者たちにとって、最大の関心事だったのでしょう。彼は「盗人のようにやって来ます」とこの箇所を始めます。「だから、あなたがたは用心していなさい。なぜなら人の子は思いがけない時にやって来る」(マタイ24:44)とイエスさまの言われたことが、ペテロの耳に響いていたのかも知れません。その終末は、もう、私たちのすぐ隣りにまで忍び寄って来ています。明日その日を迎えてもいいように、今が問われていると聞いていきたいのです。


U 神さまのあわれみを

これは、「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません」(12)と続きます。新改訳のここの訳を読みますと、私たちのクリスチャンとしての敬虔な生き方が終末を早めるのだと聞こえます。すると、私たち人間がそのような神さまの重要な役割を担うことが出来るのかという問題が生じてきますが、果たしてそうでしょうか。

 ここはかなり問題の箇所のようで、いくつかある写本を突き合わせて原典の翻訳を試みましたが、残念ながら難解で、私の手に余る箇所でした。新改訳と同じ訳し方をしたものが結構多いのですが、ここにもう一つ別の訳し方をしたものがあるので、紹介したいと思います。「この故にこれらのものはすべて崩るれば、何人に係わらず必ず汝らは神の来臨の日を待ち望みつつ、かつ急ぎつつ、聖き振る舞いと敬虔とのうちにあらざるべからざるにあらずや。すなわちその来臨の故に天は燃え崩れ、諸元は焼けて溶くべければなり。されど我らは彼の約束に従いて、新しき天と新しき地とを待ち望む、義そのうちに住むなり」(永井訳) 問題は、〈早める〉(急ぎ)が終末を指すのか、それとも私たちの敬虔な生き方を指すのかということですが、この二つのことを考えてみたいと思います。

 第一のことです。もし、私たちの敬虔が終末を早めると読むならば、終末はいつまで経っても来ないのではないかという気がします。それは、クリスチャンの本分は、敬虔ではなく、イエスさまの十字架に贖って頂かなければならないほど罪ある者だという自覚にあると思うからです。そして、確かにイエスさまは、そのような者たちのために十字架にかかってくださったのです。自分の敬虔などこれっぽっちも持ち合わせていないと、恐らく、ペテロもその信仰に立っていたのでしょう。

 にもかかわらず、終末を早めるために敬虔な生き方をしなければならないと勧められるのだとすれば、それは、私たちの生き方は、神さまのあわれみを願う以外にないとするペテロのメッセージではないかと考えられます。敬虔とは(U1:3)、「神さまとともに歩む信仰の歩み」を言うのでしょう。神さまの前に立つことの出来ない罪人であることをよくよくわきまえながら、十字架の赦しの中で歩み続けていく、そのような信仰者の苦闘する姿に、もしかしたら神さまが終末を早めてくださるかも知れないという信仰です。私たちが招かれるのは、恐ろしい終末ではなく、「正義の住む新しい天と新しい地」という希望の約束に向かってであると覚えたいのです。


V 神さまへの賛美に心溢れて

 もう一つの可能性ですが、〈早める〉(急ぎ)がクリスチャンの敬虔な生き方を指すとすることです。当時、迫害の渦中にあったクリスチャンたちの中に、終末が近いという共通の意識があったと思われます。「神の日の来るのを待ち望み」とあります。小アジヤの教会は、ローマにいるペテロに使者を送り、彼らがローマ人の迫害に直面していることを訴え、その中でどのように信仰を守り通したらいいのかを尋ね、それがこのペテロの二つの手紙になったと聞いてきました。きっとその時、彼らは、イエスさまにいつお会い出来るかと尋ねたのではないかと思われます。そして、それがこの手紙の主要なテーマになったのは、ペテロも同じ思いだったからでしょう。第一、第二の手紙の中で彼は、繰り返し、イエスさまにお会いするために、信仰者としての今を大切に生きなさいと勧めて来たのです。それがこの最後に来て、「神さまとともに歩む敬虔な歩みを、一刻も早く始めなさい」というメッセージになったのではないかと感じます。まして、今、小アジヤの教会には、イエスさまを否定する偽教師たちの異端が広がっています。彼らは、懸命に生きようとする信仰者たちを、ローマ人的現実主義や宴会など、快楽というばか騒ぎの欲望に誘い込もうとしていました。第二の手紙が書き送られた時、その誘いの網にかかる者たちは、第一の手紙の時とは比べものにならないほど増えていました。敬虔な生き方を早くと勧めたのは、そのような事情があってのことと想像するのですが、あながち見当はずれではないでしょう。一人の敬虔な生き方をする者の存在は、必ず揺れ動いている周りの者たちへの指標となっていくからです。

 〈早める〉がどちらにかかるのか、二つの可能性を見てきましたが、あなたはどちらに心惹かれましたか。どちらが正しいと断定することは出来ませんが、どちらにしても、イエスさまにお会いするためにというペテロのメッセージは、一つであったろうと思われます。心の耳を澄ませて、それを聞いて頂きたいのです。筆を置こうとして彼は、もう一度終末の様子を語ります。「天は燃えくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます」 確かに、そのような終末がやって来るのでしょう。しかし、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と証言されています。確かに、火によって滅びるとした終末は、滅びる者たちに襲いかかってくるのでしょう。しかしその時、イエスさまを信じる者たちは、その終末との遭遇を避けることが出来るのかも知れません。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先に事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものをいついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」(イザヤ65:17-18)と、神さまのメッセージを語った預言者とともに、神さまへの賛美だけを私たちの心に溢れさせていたいですね。