ペテロの手紙 第U

愛する人のために祈りを(34)

Uペテロ 3:8−9
詩篇 90:1−6
T 滅亡の終末ではなく

 先週言い足りなかったことを少し補足したいと思います。7節の〈同じみことばによって〉というところですが、先週も触れましたように、これは〈彼のみことば〉と読んだ方がいいでしょう。彼とはイエスさまのことです。天地創造のことで、「はじめに神天地を造りたまえり」という創世記一章と共に、ヨハネ一章の最初を覚えて頂きたいのです。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られ、造られたもので、この方よらずにできたものは一つもない」(1:1-3)とあります。新約聖書の記者たちは、天地創造がイエスさまの御業であると証言しています。そしてペテロは、終末を来たらせることも、またそれを差し止めていることも、同じ方の手によると証言しているのです。新改訳ではこれは「火に焼かれる」にかかりますが、そのように訳しているのは新改訳だけで、他の訳はすべてこれを「保たれ」につないでいます。永井訳を紹介しましょう。「されど今天と地とは彼の言にて蓄えられ、火にて焼かるるために、不虔なる人々の裁きと滅びとの日まで保たるるなり」 イエスさまが望んでおられるのは、決して滅亡の終末ではなく、救い主に会える喜びの中で迎える終末を一人でも多くの人と共に喜ぶために、先延ばしにしておられると聞いていきたいのです。


U 永遠の希望を

 そのことを念頭に置いてと思われますが、ペテロは、救いを知らずに滅びようとする魂を惜しむイエスさまのことを聞いて欲しいと訴えます。「しかし愛する人たち。あなたがたはこの一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(8) ここに〈この一事を見落としてはいけません〉とありますが、5節で「彼らは次のことを見落としている」と、にせ教師たちが神さまの創造と裁きの事実を忘れていることを指摘し、それと対比しているのです。〈見落とす〉とは、〈認めない〉(5節、口語訳)の意志が込められた言葉のようです。彼らは聖書をいい加減にしか読まなくなっていました。何年か前から多くの国で、聖書を読まないクリスチャンが増えていると指摘されていますが、これはそんな現代にも重なって来ます。ペテロは、「愛する人たち。この一事を見落としてはいけません」と言うことで、〈しっかり信仰の目を見開いて見つめるべきものを見つめていなさい〉と勧めているのです。愛する人たちとは、忠実な信仰者たちのことです。

 少し補足しておきたいのですが、〇O兄と話していて、今まで読んで来たことに足りないものを感じ、この手紙をもう一度読み直してみました。特にこの第二の手紙は、神さまの裁きが前面に打ち出され、異端の罪を告発することが中心のように思われますが、ペテロの思いの中心にあったものは、迫害の中でイエスさまを信じ苦闘しているクリスチャンたちを、どのように励まし、慰め、力づけたらいいかということでした。彼らに「あなたがた愛する者たちよ」と二人称で呼びかけているのは、彼の優しさの現われであったと感じます。にせ教師たちを指す時には、〈彼ら〉としか記されていません。

 本論に戻ります。ペテロは、何を見落としてはいけないと言うのでしょうか。第一に、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」ということです。詩篇90:4に「まことにあなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」とあります。これには「モーセの祈り」という表題がつけられており、恐らくモーセ自身によるものです。彼はB.C.1400年頃の人ですが、そこから千年遡ると、アブラハムの時代を越えて古代バビロニヤの時代、聖書の時代としてはまだ混沌とした歴史以前の時代でした。そして、モーセから千年後の時代は、イスラエル滅亡という危機の時代を迎えているのです。彼は、古い昔のことを、エジプトの王子として膨大な資料から学んだのでしょう。そして彼は、頑固なイスラエルが、いつの日か必ず神さまに逆らって国を滅ぼすと予測していたのかも知れません。神さまの赦しの中でこそ立ち続けることが出来るというのが、彼の信仰でした。そのような彼にとって、恐らくペテロにとっても、「千年」とは神さまの永遠だったのではないかと感じます。そしてそれは、詩篇の記者と同じ思いで叫んだペテロの、時間をも創造された永遠なるお方への信仰の告白だったのではと思うのです。終末を、不信仰者の滅びということで語って来たペテロが、今、神さまの永遠ということに目を留めて欲しいと願い、信仰者たちの新しい希望を語り始めるのです。


V 愛する人のために祈りを

 もう一つ、9節から見ていきます。「主はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」

 終末のイエスさまの再臨とは、イエスさまが何度も語られた弟子たちへの約束です。イエスさまが十字架にかかられた時、ほとんどの弟子たちは逃げ出して情けない姿を晒してしまいましたが、ペテロもその一人です。そんな彼が信仰者として立ち直り、伝道者として生涯をイエスさまに献げて来ることが出来たのは、勿論、聖霊なる神さまの助け、励ましがあったからですが、イエスさまの「わたしはもう一度来る」という約束があったからではないでしょうか。エルサレム旧市内を見下ろすオリーブ山山頂の一角に、昇天教会があります。イエスさまを天に見送ってそこから降りて来た弟子たちは、祈りに専念し、約束の助け主・聖霊を待ちました。その彼らの祈りに、イエスさま早く来てくださいという願いが強く感じられます。彼らはイエスさまから言われた、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…」(マタイ28:19)という宣教命令を実行し始めます。「早く来てください」それは、終末を早くということです。しかし、イエスさまはその終末を遅らせてまで、滅びる人の少ないことを願っておられるのです。その願いを、弟子たちも共有しました。そしてそれは、イエスさまの忍耐であり、彼らの忍耐でもあったでしょう。彼らが宣教のために地の果てにまで行ったのは、この忍耐のためでした。

 考えてみたいことがあります。迫害という状況下で、ペテロは決して目先のことだけを見ているのではなく、周りの人たち、イエスさまの救いを知らずに滅びに向かっている人たちを思いやっているのです。その中には、迫害者たちも含んでいるでしょう。ペテロはここで、「私たちは救われた者」「あなたたちは滅びる者」という、対立構造でイエスさまを語っているのではないようです。私たちのことを考えますと、つい目先のことに囚われ、自分に同調しない人たちを敵と見なし、対立関係で人を見てしまうところがあるようです。実際には、私たちの周りにそのような敵などいない……、それは、時間に縛られた有限な私たちの悲しい誤解でしょう。

 そうではなく、ペテロは、神さまの永遠に招かれている幸いに気がついてほしいと言っているのです。どうも私たちは、永遠とは時間が無限に続くことであると錯覚しているようです。しかし永遠は、時間に縛られるものではありません。永遠とは、神さまだけが持っておられる神さまの本性であり、或る哲学者が看過したように、永遠とは神さまご自身のことなのです。今、ペテロの心の中には、神さまの永遠ということが中心を占めていました。イエスさまにお会いして、なつかしい仲間たちと共に、新しく始まる神さまの御国での永遠の営みを、身も心もわくわくする思いで待ちわびていたのではないでしょうか。そして彼は、その永遠の営みに、すべての人が加えられるように願っています。世界中の人たちを迎え入れても、少しも狭くはならない天国です。救い主をまだ信じていない愛する人のために祈りましょう。イエスさまの永遠を、その方たちと共有していきたいではありませんか。