ペテロの手紙 第U

十字架のことばに耳を(33)

Uペテロ 3:1−7
ヨエル 2:28−32
T 聖書信仰に立つ

 第二の手紙3章に入ります。第一、第二を合わせ、8ヶ月以上こつこつと積み重ねて来ましたが、このような積み重ねこそ、信仰の中心点に到達していく一番の近道なのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、聖書に依って立つからです。

 きっと、ペテロもそのように感じていたのでしょう。「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです」(1-2)とあります。今までにも言ってきたことですが、これは旧約聖書と新約聖書のことを言ったのでしょう。今主題にしているのが終末ということですから、ペテロはここに預言者を持ち出しました。そして使徒は、イエスさまについて証言をする者であるとして、当時既にその絶対的権威が認められていました。2〜3世紀にかけて、新約聖書27巻が正典として成立しますが(詳細にわたる議論が完結したのは7世紀になってから)、その基準になったのが「使徒によって直接、及び使徒の権威の影響下で書かれた」もので、初期教会時代から広く認められていたことの踏襲でしょう。この時代は、ヨハネのものやユダ書など、まだいくつかは未刊でしたが、福音書や使徒行伝、パウロの手紙などは既に書き写され、教会で読まれ、イエスさまを信じる信仰の基本的教えの書として、旧約聖書と同格に扱われていたと考えて良いでしょう。そこにペテロの手紙が加えられようとしています。それは、旧新両約聖書を神さまのことばとする現代の聖書信仰となんら変わりません。その聖書の一つ一つのことばによって、私たちの信仰・イエスさまに対する純真な思いが奮い立たせられ、クリスチャンの使命が覚えられていくようにと、殉教を目前に、ペテロの配慮がにじみ出ていると感じられます。


U 神さまのことばにこそ

 その聖書という神さまの権威の中で、ペテロはいくつかのメッセージを語ろうとしますが、まず最初に彼は、教会の人たちが惑わされていた、にせ教師から始めようとします。聞いていきたいと思います。

 「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか』」(3-4) 彼らは、当時このように公然と言っていたのではないでしょう。教会で彼らは、まだ順良なクリスチャンを装っていましたから(参考U2:13)。しかし彼らは、密かに教会内でそのようなことを言い始めていました。そして、やがて公然と反キリストの立場を主張し始めるようになるとペテロは予測するのです。〈終わりの日に、あざける者どもがやって来て〉とあります。彼ら反キリストの出現は、終末のタイムテーブルの一つなのでしょう。そして、彼らの主張には、現代人の言い分に非常に近いものがあると、注目していいのではないかと思います。ペテロが、私たちこの現代の考え方や生き方を見通していたとは思いませんが、少なくとも、彼らにせ教師たちの末裔が力を持つ時代がやって来ると、予測していたのではないかと感じます。神さまの創造そのものをあざけり、疑問に思い、神なしとする欲望の生活の行き着くところを知らないそれは、まさに現代そのものが語られているのではないでしょうか。

 現代、神さまが天地万物を創造されたと、単純に信じる人たちは極めて少ないですね。恐らくそれは、進化論から始まっています。しかし、たとえ進化論そのものが、中世教会の誤った創造論や聖書理解、又は行き過ぎた教会権威に対する反発から始まったものだとしても、それは聖書の否定、神さまの否定に始まった、思想上の産物であったことを見逃してはならないと思います。

 そして、彼は反論します。「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水によって滅びました」(5-6)と、ペテロは天地創造と洪水の出来事を持ち出します。〈天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって〉とは、少々分かりにくいですが、天も地も水も神さまのことばによって出来たと理解して良いでしょう。それは、私たちが手にしている創世記1章の記事そのものです。「彼らはこのことを見落としている」と言っていますが、これは、彼らが聖書を読んでいないというペテロの指摘なのでしょう。「聖書は、神さまがみことばをもって天地万物を創造され、しかも、以前の世界は不信仰な者どもとともに神さまが滅ぼされたと証言している」と、これがまず聞いていきたいペテロのメッセージです。


V 十字架のことばに耳を

 「終末などない」とする、異端の教えがはびこり始めています。それは、やがて全教会を荒らし回るだろうという悠長なものではありません。信仰者たちが戦うべき〈今〉のこととして、ペテロはこれに向き合います。「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(7) これは、〈天地の滅亡〉と理解されますが、不思議なことに、〈火による滅亡〉とこれほど明確にされているのは新約中この箇所だけです。ペテロが何を根拠にこうまで断言したのか、また、その真意は何かを考えてみたいと思います。

 教会誕生の折りに、聖霊降臨という不思議に驚くエルサレムの民衆の前で、ペテロは神さまがなさる出来事を語りました。「わたしの霊をすべての人に注ぐ……。わたしは天と地に不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる日恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる」(使徒2:17-21、ヨエル2:28-31) 問題は後半です。彼の脳裏には、かつてイエスさまが話されたことが焼き付いていたのでしょう。「ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降ってすべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現われる日にも、全くそのとおりです」(ルカ17:29-30) 彼はソドムとゴモラの滅亡を語りましたが(2:6-8)、それは終末の出来事に重なっていたと思われます。

 この終末を、にせ教師たちは〈キリストの来臨〉という言い方をします。恐らくそれは、弟子たちが口癖にしていた〈もう一度イエスさまにお会いできる〉という再臨のことだったのでしょう。きっと、小アジヤの教会の人たちは、パウロの他にも何人もの弟子たちを見知っていました。〈先祖たちが眠った時から〉とあります。その中には、弟子たちで、すでに亡くなった者たちも含まれていたと思われます。そして、彼らが居なくなってもまだイエスさまは来ないではないかと、にせ教師たちはイエスさまさえも否定し始めたのです。そこでペテロは、もう一つの権威、彼らが否定したイエスさまの教えをもって、終末の決定的な出来事を語りました。火による滅亡ということです。

 ペテロは言います。「今の天と地は、同じみことばによって……、不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで保たれているのです」と。〈同じみことば〉とは、〈彼のことば〉つまりイエスさまご自身のことであって、〈保たれている〉にかかっています。イエスさまは、天地の滅亡や私たちの裁き、滅びということではなく、何とかして私たちが十字架の救いに出会い、神さまの御国に招かれる者となって欲しいと願っているのです。それこそペテロのメッセージであると聞かなければなりません。彼が語る終末は、やがて必ずやって来ます。もしかしたら、もう間近に迫っています。そのような日を迎える前に、イエスさまの十字架のことばに耳を傾けて頂きたいと願います。