ペテロの手紙 第U

さらなる信仰の訓練を(31)

Uペテロ 2:17−19
詩篇  119:25−32
T 信仰の理性を養いつつ

 神さまの裁きを語りながら、それを信仰の警鐘としたペテロのメッセージを聞いています。2章の4回目ですが、とにかく難解です。きっと、私自身裁きということに拒否反応を持っていて、問いつめられたら困るものをたくさん抱えているからでしょう。神さまの前に立つという最終局面で惨めな思いをしないためにも、今、この信仰の警鐘を、心して聞いていきたいと思います。2章の終わりの部分に、まだ違うメッセージが残されていると感じ、もう一度細かく区切って見ていくことにしました。

 にせ教師たちへの、ペテロのむちゃくちゃな言いようが続いています。一番目のことです。「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです」(17)〈水のない泉〉ということですが、これは渇いている心、信仰の情熱が失われている状態ではないかと思います。情熱と言いましたが、信仰はしばしば、熱心に過ぎると狂信的と言われ、異端の匂いを感じさせて危険なものになってしまいます。だから冷静にと言われるのですが、それは熱い心を失うということではありません。イエスさまのために何もかも捨てるほどの熱いものが流れている、それが私たちの信仰です。しかし、その熱い思いのために、本当のものが見えなくなってしまう危険性もあるのです。ものごとを正しく判断出来るために、みことばに基づいた信仰の理性を麻痺させてはなりません。その信仰の理性を麻痺させてしまったのが、彼らにせ教師だとペテロは言っているようです。彼らの心には、欲望、自己中心、怒り、高慢と、いろいろな風が吹き荒れていたのでしょう。そして、その突風と戦う意味さえ失ってしまったようです。ペテロの目には、彼らが出口のない暗闇に入りかけていると見えたものと思われます。私たちも、心しなければなりません。人一倍信仰に熱心であり、訓練も重ねて尊敬を受けていた彼らでさえ、この危険に打ち勝つことが出来なかったのです。まして、いつもかさかさに渇いて、たえず生ぬるい信仰の私たちです。〈水のない泉〉が私たちの行き着くところではないと、どうして言うことが出来るでしょうか。しかし、毎日聖書を読み、祈り、神さまの前に膝をかがめることで、少々の風が吹いても倒れない、イエスさまを信じる信仰に立ち続けることが出来るのです。


U 今も生ける神さまを見つめながら

 二番目のことです。「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです」(18-19)とあります。にせ教師たちが滅びの奴隷と言われていることから考えてみたいと思います。〈滅び〉は聖書の主要なテーマの一つで、たくさんの記事がありますが、今回はペテロのイメージの中にあることから考えてみたいと思います。きっとそれは、現代人の考え方に通じるところがあり、〈滅び〉は私たちの側にも寄り添っていると感じるからです。

 ペテロの脳裏の中に3つのイメージが汲み取れるようです。一つ目は「むなしい大言壮語を吐いて」とある彼らの生き方のことです。ペテロのイメージの中にあるクリスチャンの生き方は、きっと、イエスさまに倣う本物の愛の人としての歩みでした。弟子たちはイエスさまから、世の光・地の塩としての生き方を学び、ペテロはそのことを思い出していたのではないでしょうか。山上の垂訓にこうあります。「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように自分の前でラッパを吹いてはいけません」(マタイ6:2)  彼らは人前でラッパを吹くことを生き甲斐にしていました。それが彼らの生き方であり、それはむなしいのだと、ペテロのため息が聞こえて来るようです。

 二つ目は、ペテロにとって、彼らが魂を悪魔に売り渡しているように見えたのではないかということです。「肉欲と好色によって誘惑し」とあります。聖書は悪魔のことを〈誘惑者〉と呼びますが、悪魔がそうであったように、恐らく彼らは自分たちが神さまの恵みから外れてしまったことに気がついていました。そして、毒を食らわば皿までと、恵みの中にある人たちを、肉欲や好色をもって引き降ろそうとしているというのです。神さまの恵みに立ち続ける以外に、誰もその誘惑に勝てる者はいません。そして三つ目ですが、「自由を約束し」とあるところからです。ペテロの中には、彼らがローマ人の飲み騒ぐ生き方を自由とし、信仰者のイエスさまに倣う生き方を宗教に囚われた哀れな者と主張しているというイメージがあったのでしょう。しかし、その自由こそ実は、快楽や欲望の奴隷の姿だと言うのです。自由のはき違えは、私たち現代人の非常に多くある問題ではないかと思います。希望と見えるところに本当の希望がないことを、私たちは本気になって見極めなければならないと思わされます。

 こう見てきますと、滅びの奴隷とは、神さまを見失い、見える現実だけが価値があるものと居直ってしまう姿と重なるようです。しかし、私たちが見つめなければならないのは、その現実の中で働いておられる神さまなのです。


V さらなる信仰の訓練を

 もう一つのこと、誘惑に乗りかけている人たちに「彼らは、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束する」(18-19) と言われていることです。にせ教師たちが誘惑のターゲットにしているのは〈誤った生き方をしていたが、今はそれをのがれようとしている人々〉、つまり、一度は間違った教えに迷い込んだが、しかし、イエスさまを信じる信仰に立ち帰った人たちのことです。彼らは、信仰暦が浅く、十分な信仰の知識もなく、まだ訓練も受けていない人たちだったのではないかと推測しました。彼らが陥った間違いの教えがどのようなものであったか分かりませんが、この第二の手紙は、第一の手紙が書き送られてから4年ほど経っています。きっと彼らは、4年前に教会に広がり始めた間違った教えに、それとは気ずかずに囚われたのでしょう。しかし、どのような経緯か分かりませんが、彼らは信仰に立ち戻りました。このにせ教師たちは、そんな彼らを追い打ちをかけるように誘惑したのです。その立ち回りは巧妙で、誘惑は成功したという印象を受けます。

 考えたいことがあります。当時の教会には、まだ信仰訓練が十分に行き届くようなシステムはなく、また、自分で聖書を読むことなど、ほとんど出来なかったと見て良いでしょう。確かに、日曜日は聖なる礼拝の日とされていました。しかし、奴隷や労働者たちがその日のその時間に教会に行くことは本当にむつかしかったと思われます。一日の仕事を終えてパンを割きに集まった人たちの記事が使徒行伝20章に出て来ますが、教会の歴史はようやく始まったばかりでした。聖書を読むことも、礼拝に加わることも困難だった人たちが、唯一信仰の訓練とするのは、〈祈ること〉だったのでしょう。しかし、それでも彼らはイエスさまを救い主と信じ、その信仰は単純で純粋だったと思います。小アジヤ教会の迫害の中で殉教していったのは、そのような人たちだったのです。そのような弱さを覚える人たちにとって、迫害のような強烈な圧迫の中で信仰を守り通すことは、本当にむつかしいことだったのではないでしょうか。まして、尊敬していた教師たちが教えてくれることに異議を唱えることなど、恐らく、現代のクリスチャンとってもむつかしいことと思うのですが。

 現代の私たちも、その点を考えておかなければなりません。何度も言ってきたことですが、毎日聖書を読み、祈り、礼拝を守ること、そして、十字架とよみがえりのイエスさまに視線を定め、ペテロたちのことばを自分宛のものと受け止めていく意識と訓練の積み重ねが大切です。自分は牧師や伝道者ではないという言い訳けなどなしにして、詩篇の記者が信仰の戦いと苦しみの中から叫んだ告白のことばを覚えたいと思います。「みことばのとおりに私を堅くささえてください。私は真実の道を選び取ります」(119:25-32)