ペテロの手紙 第U

信仰の警鐘を(30)

Uペテロ 2:11−16
出エジプト 20:17
T 神さまの領域にまで

 2章の続きです。ますます難解になっていくと感じていますが、神さまの裁きということで、ペテロの語りたいことはもっともっとあるのでしょう。その一つでも聞き取っていけたらと思います。

 この箇所は10節の後半から始まります。「彼らは、大胆不敵な尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです」(10-12) 〈そしる〉という言葉が三回使われており、これがこのところの一つのテーマなのでしょう。初めにこのことについて考えてみたいと思います。

 彼らとは、教会内に異端を持ち込んだにせ教師たちを指しますが、その彼らが〈栄誉ある人たち〉をそしったとペテロは告発しています。〈栄誉ある人たち〉を御使いであろうとする人たちもいますが、もしかしたら、迫害で殉教した人たちのことかも知れません。これは私の推測ですが、殉教者たち全員が十字架とよみがえりのイエスさまを救い主とする正統の信仰を告白していたかと言うと、必ずしもそうではなく、中にははっきりしないままの人たちもいたのではないかと思われます。だからと言って、その人たちがとやかく言われる必要はない、たとい間違いが明らかだったとしても、彼らは既にイエスさまの手に委ねられた者だからです。「御使いたちも彼らをそしって訴えることがなかった」というのは、そのところをわきまえなければならないというペテロの主張なのでしょう。訴えるとは、神さまにその罪を告発するということです。ところが、彼らにせ教師たちは恐れげもなくそれをあげつらい、そしったのではないかと想像します。それは神さまへの告発ではなく、恐らく、自分の正しさを主張するための大声だったと思われます。彼らは、良く分からないことにまで口を出していたのでしょう。

 何もかも推測で申し訳けありませんが、真相はどうあれ、ここにペテロのメッセージが浮かび上がって来ます。裁くことは神さまの領域であり、まして、信仰のことで人をそしり、その間違いを上げつらって賛同者を得ようとするなど、断じて私たちのすべきことではないということです。信仰のことは、神さまとその人のことであり、何人たりともその心の中にまで踏み込むことがあってはならないのです。


U 信仰の仮面ではなくて

 第二のことです。「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らはしみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいなのです」(13-14) 〈昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えている〉とは、迫害者ローマの快楽主義に歩み寄っているということでしょう。前にも言ったことがありますが、ほんの少し、自分だけのためにそれを楽しむのであれば、問題にされることはなかったでしょう。ペテロもこんなにまでむちゃくちゃな言い方はしなかったと思います。ところが、こんなふうに言われるのは、一つには、愛餐の席で心の定まらない者たちを巻き込んだという点で告発されているのです。これは、〈栄誉ある人たちをそしる〉よりもっと悪質な彼らの中身と言えましょう。そしてもう一つ、信仰に立たなければならないところで、彼らは信仰者の仮面を楽しんでいたということでです。〈あなたがたといっしょに宴席に連なるとき〉とあります。これは教会で聖餐式と共に行われる食事(愛餐)を指すと考えられていますが、その席に連なりながら、心の中に〈だましごと〉を楽しんでいたと告発されているのです。だましごととは欺きを意味しており、彼らは、教会の中では敬虔なクリスチャンらしく振る舞いながら、その実、隙あらば一人でも多くのクリスチャンたちをイエスさまから引き離そうと牙を研いでいたのかも知れません。

 きっと彼らは、イエスさまを信じる信仰より、現実に立てられた人間の集団としての教会と、その中で自分たちが立ち続けていくことの方が、ずっと大切になっていたのでしょう。現代の私たちも、その信仰の危険性を絶えず抱えていると承知しておきたいのです。


V 信仰の警鐘を

 もう一つのことを考えてみたいのですが、ペテロが彼らにせ教師たちを、旧約聖書・民数記に出て来る占い師バラムになぞらえていることです。「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したペオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです」(15-16)とあります。何故ペテロがバラムのことを持ち出したのか、民数記22章を見ながら考えてみたいと思います。

 今、エジプトを出て来たイスラエルの人たちは、カナンに自分たちの国を作ろうと向かうところであり、エリコをのぞむヨルダン川の東岸モアブの草原に宿営していました。モアブ人の王バラクは彼らに戦いを仕掛けたいのですが、その軍勢が非常に多いのを見て恐れ、ユーフラテス河畔のペトルにいる有名な占い師バラムに使いを送ります。「ここに来てイスラエルを呪ってください」 バラムは到着した使者たちを一晩泊め置いて神さまに伺いを立てます。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民を呪ってもならない。わたしがその民を祝福しているからだ」 そして彼は「主が私を行かせない」と断るのです。しかし、バラクは諦めないで二度目の使者を送ります。「私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが言いつけられたことは何でもします」 つまり、相当の報酬を約束したのでしょう。バラムは断固それを断るべきでした。それなのに彼はもう一度神さまに聞きます。神さまは条件を出して彼の行くことを許可します。「わたしがあなたに告げることだけを行なえ」 そして彼は使者たちと出かけますが、その前に抜き身の剣を持った主の使いが立ちふさがり、彼が乗ったロバにはそれが見えたのですが、バラムには見えないのです。立ち止まり、戻ろうとするロバに怒ってむちをふるうバラムに、神さまはロバに人間の言葉を与えて言わせます。「私は、あなたがきょうのこの日までずっと乗って来られたあなたのロバではありませんか。私がかつてあなたにこんなことをしたことがあったでしょうか」 彼が不義の報酬を愛したと言われ、もの言わぬ筈のロバがしゃべってその罪を咎めたというのは、この出来事を指しているのです。

 彼が登場するのは民数記22-24章だけですが、それは、彼のような者を通してさえ、愛する者に祝福を与えてくださる神さまの恵みを浮き彫りにし、反対にバラムの名を不義の報酬を求めるシンボルとして長く記憶する出来事となりました。ペテロはこの名をにせ教師たちに当てはめるのです。それは、彼らの不信仰が、次第にこの世のもの、物質的・金銭的なものにだけ傾いていたからではないでしょうか。「宗教は、財産を持ったらおしまい」と、聞いたことがあります。出エジプト記にある十戒の最後から聞いてみたいと思います。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない(むさぼる)」(20:17) この基本律法が「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(20:3)と神さまを覚えるところから始まり、そして、人間の欲望を戒めるところで終わっていることを考えるなら、イエスさまを信じる信仰の最大の障害は、私たちのあらゆる欲望ではないかと思われるのです。心してこの警鐘を聞いていきたいと思います。