ペテロの手紙 第U

主のあわれみによって(29)

Uペテロ 2:4−10
創世記  19 :15−16
T 聖書自らが

 今朝は2:4-10です。ここから2章の終わりまで、とにかく難解なところです。実は、この難解なところは飛ばして、2章の終わりまでを一気に取り上げようと考えていました。それでも、ペテロのいくつかのメッセージは聞き取ることが出来るだろうと。しかし、それでは自分の都合に合わせて自分の聞きたいところだけを聞くことになり、聖書信仰ではなくなってしまいます。どうするか迷いながら、今朝も苦しんで聖書が語るところを聞いていくことになります。手に余るところはご勘弁ください。

 先週1-3節で、全く触れなかった箇所があります。「自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(1)「彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」(3)です。今朝のところは(11節以降も)、その〈裁き〉を主題にしますが、なぜペテロがこの主題にこれほど多くの言葉を割いているのか、一つには、これが大切な問題だったからです。しかし、もう一つの理由があります。それは、裁きという問題自体が、語るペテロや聞く人たちにとって、難しいことだったのではないかということです。ですから、現在の私たちが消化不良を起こしてもやむを得ないのではないかと思ったりもしますが、言い訳けのどさくさに紛れて一つのことをはっきりさせておきたいと思います。聖書信仰とは、聖書自らが語るところを聞こうとする姿勢を言います。聖書は自分好みの聞きたいメッセージだけを語っているのではないことを、この機会に覚えて頂きたいのです。


U 救い主を否む者に

 さて、本文からです。「神は罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めてしまわれました。また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えた……」(4-6)と、ペテロは神さまがなさった旧約時代の裁きの出来事を3つ上げます。まず〈罪を犯した御使い〉のことですが、これは旧約聖書ではなく、旧約外典と呼ばれるエノク書からの引用のようです。「アザゼルの手足を縛って暗闇に放り込め。ダドエルにある荒野に穴を掘ってそこにあいつを投げ込め」(エノク10:4)とあります。これは、創世記6:2「神の子らは、人の娘たちがいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで自分たちの妻とした」とある記事を堕落天使と結びつけて、もしかしたら古い言い伝えをもとに創作したのかも知れません。ペテロがこれを旧約聖書と同格に認めていたのかというと、そうではなく、「にせ教師たち」がエノク書を彼らの主張の根拠にしたこと(あくまでも推測ですが)をそのまま受けて、反論の材料にしたものと聖書学者たちは考えているようです。そして、恐らくペテロと同じ視点から、その議論を援護したと思われますが、同時期かもっと遅くなってから書かれたユダ書には、やはりエノク書を引用した堕落天使の記事があります。これには堕落天使の記事だけでなく、次のソドムとゴモラの滅亡の記事も語られており、こうして、複数の教会指導者が連携して問題の解決に当たっているのです。そこから、これがその時代にどれほど重要な問題だったかが分かります。ペテロたちは、神さまの権威に言及しているのでしょう。神さまの裁きが、天使にさえも及んでいたという点が強調されているのです。まして、人間が神さまの裁きを侮ることは断じて赦されることではないと、彼の一つのメッセージが聞こえて来ます。

 二番目は洪水物語として知られるノアのことです。この出来事は、旧約聖書時代の神さまの裁きの代表格として、余りにも良く知られていることだったので、ペテロは旧約聖書にあるその事実だけを淡々と語り、ユダ書も余計な補足の必要がなかったのでしょう。そして三番目は、ソドムとゴモラです。「ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました」(6) 創世記19章に、多分、火山噴火で滅亡した、大きな都市ソドムとゴモラのことが記されています。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い」(創世記18:20)「彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はその町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされた」(19:13) ユダはこの記事でもペテロを補足します。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています」(7) きっと、ペテロやユダは、にせ教師たちを神さまの裁きに委ねようとしたのでしょう。2:3に言われたことをもう一度思い出しておきたいのです。「彼らが滅ぼされないままでいることはありません」と。ここで、彼の一つのメッセージを聞いておきたいのですが、それは、裁きは神さまの領域であるということです。他人を裁くことは、私たちのすることではありません。ただ、もし私たちが十字架のイエスさまを否定するようなことがあるなら、その審判は私たちの上にもと覚えておかなければなりません。


V 主のあわれみによって

 もう一つのことです。「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました」(7)と、神さまの裁きが続く中に、ロトの記事が挿入されています。これがここでのペテロの中心メッセージではないかと思うのですが、注意深く聞いていきたいと思います。

 ロトはアブラハムの甥でした。アブラハムが神さまから「わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、ユーフラテス川沿いに栄えたカルデヤのウルからカナンに移住して来た時、彼も神さまの祝福を受けたいと一緒に出て来たと思われます。ところが、所有する互いの羊にとってカナンの牧草地は狭く、別々の生活圏を選ばなければなりませんでした。ロトは栄えるソドムやゴモラなど、良く肥えた低地(多分死海沿いの地方)を選んで住みます。ところが、「ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった」(創世記13:13)とあります。破壊されたこの地域が、どこでどんなところだったかはよく分かりませんが、死海西側の海底に沈んだままではないかと推定されています。しかし、確かにそれらの町々は実在し、神さまに対する罪を問われて滅亡したのです。ペテロが殊更この出来事を取り上げたのは、一つには、にせ教師たちがこの出来事を単なる作り話しとし、神さまの裁きなどは空想に過ぎないと、真面目なクリスチャンたちを惑わしていたからではないかと思われます。しかし、それは神さまの出来事であり、歴史上の事実であり、今もなお有効なのです。

 そしてペテロは、そのソドム・ゴモラを迫害者ローマに、更にローマにも似た現代世界に重ね、義人ロトの救いを、迫害の中で信仰を守り通そうとする者たち、そして頑固なまでにイエスさまを救い主と信じる現代のクリスチャンたちに重ねているのでしょう。神さまの目は、その両方に注がれていることを忘れてはなりません。「これらのことで分かるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもをさばきの日まで懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです」(9-10)とある通りです。そのペテロの何よりも語りたかったメッセージを聞きたいと思います。彼は、「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです」(8)と、ロトの祈りに触れていますが、ペテロの優しさが聞こえるようです。主のあわれみは、そのような愛の心を育てる者たちに注がれるのです。そしてそれは、弱いながらもイエスさまの十字架の救いに立ち続けようとする者たちへのあわれみにつながるのではないでしょうか。ロトの救いについてこうあります。「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。『さあ立ってあなたの妻とここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい』彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた」(創世記19:16) 私たちの救いを思うとき、〈主のあわれみ〉だけを大切なものと聞いていきたいと思うのです。