ペテロの手紙 第U

十字架の恵みの中で(28)

Uペテロ 2:1−3
哀歌 3:22−24
T 異端問題の登場

 第二の手紙2章に入ります。1章の後半で私たちは、イエスさまの出来事を神さまご自身が証言し、その証言こそ聖書であると言うペテロの証言を聞いてきました。「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心に上るまでは、暗いところを照らすともしびとして、それに目をとめていなさい」(19)とありました。〈明けの明星〉とは再臨のイエスさまであり、〈夜明け〉とはイエスさまにお会いすることでしょう。その終末を見据えながら、2章でペテロは、もう一つの問題に入ろうとします。異端ということです。これを私たちの信仰への警鐘と聞いていきたいと思います。2章全体が一つのフレーズとこれも長いので、何回かに区切って見ていきましょう。

 今朝はまず1-3節からです。「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります」(1)と始まりますが、異端を〈にせ教師〉という言い方でここに登場させて来ます。ペテロはこの〈にせ教師〉という言い方で、一つのメッセージを伝えたいと願っているようです。教師ということから考えてみたいのですが、二つのことがあります。第一に、これは1:19から2:1へと続く中で見なければならないことですが、教師を預言者と並べているところに、ペテロの意図が感じられます。きっとそれは、聖書に対する預言者であり、教師なのでしょう。つまり、預言者がそうであったように、教会での教師の責任は第一に聖書に対してあるという、ペテロのメッセージが浮き彫りにされていると感じるのです。そして、もう一つの点ですが、ここでペテロは「にせ教師」と言っています。教師とは本来、弟子たちがイエスさまに向かって先生と呼んだ時の言葉であり、そのイエスさまの人格を内に持つ存在、つまり「イエスさまの代理者・教会の指導者」を指す言葉として用いられるようになったようです。これは、教師ばかりではなく、クリスチャン(キリストに似た者)という言い方も当てはまります。イエスさまを信じる信仰の内容の問題なのです。それが、教会が次第に増え、人の集まりという意識が大きくなるにつれて、本来の「イエスさまの人格の代理者」という信仰の事柄よりも、「イエスさまの権威の代理者」という意識が強くなってきたのです。教会が少しづつ組織化されていく過程を見るようですが、「にせ教師」も、その過程の中で現われて来た人たちではなかったかと思われます。


U 信仰の戦いの中で

 この偽教師は、「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(1)と言われます。異端とありますが、これは、キリスト教を名乗ってはいるが、実質は違うものだということです。きっと、彼らは自分たちの仲間を集めることに熱心だったのでしょう。この異端は小アジヤの教会ばかりでなく、迫害下にある各地の教会にじわじわと思いがけないほど広がっており、ペテロの警告は、そんな事情下のことであったと思われます。ここに、異端を見分けるポイントのようなものをいくつか並べておきたいと思いますが、きっと参考になるでしょう。@教祖的(カリスマの強い)な人物がいる。A自分の偉大さを売り込む。B自分の教えに盲目的に従うことを要求する。C信仰に熱心であることを要求する。D自分たちの教会だけが本物であると教える。……などなどですが、その中心点は二つ、聖書とイエスさまの否定に絞られるのではないかと思います。こう指摘しますと、現代でも思い当たる宗教がいくつか浮かんで来るでしょう。ペテロが1章で聖書のことを取り上げ、続いて2章で異端問題にページを割いているのは、これが信仰者たちにとって、何よりもはっきりさせておかなければならない点だったからです。そしてこれは、4世紀頃までの迫害の時代を通して、教会の最も重要な問題となっていったのです。

 初期のキリスト教は、ローマ帝国公認の宗教となる4世紀まで、異端との戦いを続けていきます。その中で教会は、何が正統なのか、イエスさまを信じる信仰は何に拠って立つのかと苦しみ、祈りながら、現在私たちが手にする27巻の福音書や書簡などを正典(カノン)として新約聖書と定め、更にイエスさまが私たちの主であり神さまご自身であるという「教え」を確立していくことになるのです。その陰に、ペテロたちが戦った信仰の戦いの軌跡と証言が、大きな力になっていったのではないかと推察します。ペテロの証言を思い出して欲しいのです。「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」(1:1)「使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」(3:2) 私たちの罪のために十字架にかかられたイエスさまこそ、私たちの救い主であり、私たちの主・神さまであると聖書からしっかりと聞いて、その信仰の告白と戦いを受け継いでいきたいものです。


V 十字架の恵みの中で

 私たちにとっての異端問題とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。これまで日本の教会は、この問題についてあまり考えて来ませんでした。それほどこの問題が深刻ではなかったからでしょう。しかし今、異端と言われるものが意外なほど多く出現しているようです。そして、更に気をつけなければならないことに、正統のキリスト教を名乗る中にも、かなりきわどいものが増えているということです。正しく見分ける知恵を養っていく必要があるでしょう。そしてもう一つ。異端が多く現われるのは、終末の特徴であるということです。「(世の終わりの時には)わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ『私こそキリストだ』と言って多くの人を惑わす」(マタイ24:5) これは、当時のことだけではなく、格別に、現代の私たちが聞くべきことでもあります。今、イエスさまとお会いする日がすぐそこまで迫って来ています。この2章にいくつもの具体的な警告がありますが、その最初のものから聞いてみたいと思います。

 「多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしられるのです。また、彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」(2-3) 好色とか貪欲と言われています。非常に問題のある言葉のように聞こえますが、これは当時のローマ人の快楽中心の生活態度を指していると考えて良でしょう。ところが、これにも程度があって、誰もが昼間からどんちゃん騒ぎをしていたわけではありません。懸命に働き(一般にローマ人たちは働き者)、たまに息抜きをする。そんな人たちもいたでしょう。真面目なクリスチャンたちも、ある程度そのような生活を送っていたのではないかと思われます。ところがペテロは、そのような当時の常識範囲と思われることを好色、貪欲と断罪しているのです。クリスチャンの倫理観が、どれほど微妙なところで他と区別されなければならないかを知らされる思いがします。小アジヤ教会の〈にせ教師たち〉のイエスさまを信じる信仰に、初めはかすかにだったかも知れませんが、これくらいは問題なしとして、別の価値観が入ってしまったのでしょう。それが、やがて救い主イエスさまの否定へと進み、自分の信仰の中心になるほどに大きく育ってしまったのです。

 太平洋戦争の時、牧師たちが揃って靖国神社に参拝し、戦争の必勝祈願をしたことがあります。だからと言って、信仰が失われていたわけではなく、十字架の救いを否定していたわけでもありません。ただ、軍部の圧迫があってやむを得なかったとし、本心ではないと言いながら、当時の価値観を教会に持ち込んでしまったのです。その後の教会の長い低迷と失われた信用とを考えますと、それがどんなに重大な結果を生み出したかを知らなければなりません。現在の私たちにとっても、十分に考えておかなければならないことでしょう。繰り返したいと思いますが、頂いた十字架の救いを見つめ、イエスさまを証言する聖書に聞くことで、信仰の中心の微妙なずれを見逃してはならないということです。私たちの信仰の真ん中にあるのは、十字架の恵みだからです。エレミヤも証言しています。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからである。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22)