ペテロの手紙 第U

神さまの思いの中で(27)

Uペテロ 1:19−21
詩篇 119 :105
T 神さまご自身の証言から

 12-21節のフレーズの、先週は18節までを見てきました。今朝は残りの19-21節ですが、読んでお分かりのように、ここのテーマは「聖書」です。この聖書という中心主題は、唐突に持ち出されたわけではなく、栄光のお姿に変わられたイエスさまの出来事の証言の続きとして、ここに語られていると考えられます。今朝の箇所に入る前に少し、先週聞いた、特に後半の16-18節を繰り返し考えてみたいと思います。

 迫害者たちや小アジヤ教会の一部の人たちが、「イエスさまのこと(力や再臨)は、ペテロや弟子たちの作り話だ」(1:16)と言って軽んじています。それに対してペテロは、「イエスさまのことは事実であり、私はそのことの証人である」と証言します。その証言のために持ち出したことが、イエスさまと一緒に行ったヘルモン山での出来事でした。そこで彼は、ヤコブやヨハネとともに栄光のイエスさまを目撃し、神さまの声を聞いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」 それは、すべての弟子たちとともに行なったペテロの証言であると同時に、神さまご自身の証言であるという彼の主張なのでしょう。イエスさまのこと、十字架の救いも、私たちの癒しも、また、私たちがもう一度イエスさまとお会い出来るという希望も、神さまご自身が「それは、わたしの計画した事実だ」と証言しているのです。

 ところで、ペテロがイエスさまと一緒にいた時のことを話すのは、非常に珍しいことでした。彼の手紙には、ほとんどイエスさまとともに体験した出来事は記されていません。そればかりか、使徒行伝であれほど「私たちはそのことの証人である」と繰り返したイエスさまよみがえりの証言でさえ、この書簡には一言も出て来ないのです。恐らく、個人の体験を信仰の土台に据えることは、イエスさまを信じる信仰の本来的在り方ではないという思いがあったのでしょう。だからこそ慎重に、これは自分の(変わりやすい人間の)証言ではなく、神さまご自身の証言であると、〈神さまのことば〉を持ち出すことで、それに聞いて欲しいと願ったのでしょう。それは、私たちの学びたい信仰姿勢でもあります。ペテロがここで聖書を持ち出したのは、決して意外なことではなかったのです。


U 神さまからのメッセージを

 前置きが長くなりましたが、今朝の箇所からペテロのメッセージを聞いていきたいと思います。
 「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」(19)と始まります。〈預言のみことば〉とありますが、3:2に「それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためです」とあることから、それは旧約聖書(多分70人訳と呼ばれるギリシャ語訳)と、当時、まだ未完成ではあったが、マタイ、マルコ、ルカの福音書や使徒行伝、パウロの手紙といった〈新約聖書〉のことが言われていると考えて良いでしょう。少なくとも当時の教会の人たちが、その回覧されて来た〈新約聖書〉を書き写し、イエスさまの教えを伝えるものとして読んでいたことは間違いありません。

 ところで、ユダヤ人たちは旧約聖書を指す時、〈律法〉と呼ぶのが普通ですが、〈新約聖書〉も含め、ユダヤ人であるペテロがわざわざ〈預言のみことば〉と言ったのは、イエスさまの再臨いうことが意識にあったからではないかと推測します。預言とは、過去、現在、未来に関係なく、私たちに伝えられる神さまからのメッセージでした。しかしそれは、今、格別に迫害という異常事態の中で、信仰者たちが神さまの御国に迎えられようとする、終末のことが語られているのです。彼らをイエスさまとお会いするところに招こうとする神さまの恵みが、〈預言のみことば〉という表現になったと思われます。そしてもう一つ、〈明けの明星〉という言い方にも注目しておきたいのですが、「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」(19)とあります。これは終末の時に、栄光のお姿で私たちのところにおいでになるイエスさまを指す言葉として、黙示録でヨハネが用いているのですが(22:16)、ペテロも〈これを栄光のイエスさまのことである〉と意図したと言って差し支えないでしょう。きっと、当時のクリスチャンたちにも、説明なしに了解出来ることだったのでしょう。現代の私たちにとっても、「イエスさまにお会いする時まで、聖書のことばにしっかりと聞いていくのです」と語られているのです。ここに、聖書への信頼こそ、私たちの信仰を支える力であるとする、ペテロの思い(現代流には〈聖書信仰〉)が浮かび上がっているように思うのです。


V 神さまの思いの中で

 後半の20-21節から、もう一つのことを聞いていきたいと思います。ペテロはここで、聖書信仰の原則を伝えようとしていると思われます。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならないということです」(20)〈人の私的解釈〉ということですが、これは自分勝手に解釈する(新共同訳など多数)ことでしょう。一つの例を上げてみたいのですが、〈ものみの塔〉が使う「新世界訳」では、この箇所が「聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていない」となっています。ここで〈個人的な〉というのは、彼らの教団が自分たちの信仰(たとえば、イエスさまを神さまでないとする)に基づいて聖書を翻訳しているからであって、たとえ正しくとも、彼らの信仰に背くような翻訳は、〈個人的〉の一語で葬り去ろうとする意図が見えています。まさに〈自分勝手に解釈〉した良い例ではないでしょうか。

 では、何が正しい解釈なのでしょうか。ペテロは言います。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(21) 誤解のないように整理しておきたいのですが、ペテロは「自分勝手に解釈してはいけません。このように解釈すべきです」と、解釈の具体的方法を言っているのではありません。「聖書は聖霊に動かされた人たちが書いた神さまのみことばである」という、原則を確立しておくことが重要であると指摘しているのです。それがないがしろにされる解釈や翻訳であるなら、断固排除しなければならないという警告なのでしょう。実際に小アジヤの教会に今、イエスさまを否定するような動きが見られます(2:1)。彼らの信仰の戦いは、迫害というよりも、むしろ、そういった異端との戦いであったのです。そして、その戦いは、現代まで延々と続いて来たことを忘れてはなりません。

 何を警戒しなければならないのか、少し並べてみたいと思います。教団とか教派の立場に合わせた解釈、信仰上の自分の経験による解釈、世間一般の常識で判断した解釈、哲学などの学問体系を優先させた解釈、いい加減なその場限りの思いつき程度の解釈……。こうしてみると、神さまよりも人間が優先された中での解釈、という面が浮かび上がって来るようです。本当に警戒しなければならないのは、神さまの思いを離れたところで聖書を理解しようとする、私たちの思いではないでしょうか。

 受け止めておきたいことがあります。聖書信仰という言い方のルーツですが、これは福音主義と同じで、16世紀の宗教改革に端を発するプロテスタント教会の信仰を指します。改革者エラスムスやルターは、埋もれていたギリシャ語原典の聖書研究に力を注ぎ、彼らは聖書に聞くことだけを信仰復興の鍵とし、「ソーラ・スクリプトゥス(ただ聖書のみ)」を旗印にしました。聖書信仰とは、「聖書は神さまのことばである」と思っているだけでなく、厳密に聖書を調べ、そこから神さまのメッセージをしっかりと聞いていこうとする信仰です。詩篇119:105には「汝のみことばは我が足のともしび、我が道の光」とありますが、私たちもそのことをしっかりと心の碑に書き留めておきたいと思います。