ペテロの手紙 第U

信仰の実を結ぶ者と(25)

Uペテロ 1:8−11
詩篇  126:5−6
T イエスさまにお会いすることを

 ペテロ第2の手紙1章をいくつにも細切れに見てきましたが、先週、3節から11節までは一つのフレーズであり、ペテロにはこのフレーズで語りたいことがあると聞きました。細切れにしたところでも、それぞれ大切なメッセージを聞いてきたのですが、その一つ一つがどれほど大切であったとしても、このフレーズの中心主題を見失ってはなりません。今朝、このフレーズを終えるわけですが、ペテロが語りたいと願った中心主題からのメッセージを聞きたいと思います。

 先週触れた中心主題をもう一度繰り返しますが、4節に「あなたがたがその約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」とあり、11節に「イエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられる」とありました。イエスさまを信じる者たちは神さまの国に招かれているという終末がここの中心主題ですが、ここでペテロは、信仰者がそれをどう受け止めなければならないかを問いかけているのでしょう。彼の思いの中に二つのことがあると思われますが、まず終末ということで、ペテロの思いに何があったのかを考えてみたいと思います。一つは、間違いなく、イエスさまの再臨とそれに伴う新しい天と地の出現でしょう。それは、私たちが神さまの御国に招かれることを意味していました。3:4に「キリストの来臨」という言葉があって、13-14節には「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」とあります。殉教を間近にしたペテロの心を占めていたのは、イエスさまにお会い出来るという喜びでした。その頃、紀元67年の秋か冬、イエスさまにお会いしたことのある弟子たちはほとんど残っていませんでした。間もなく、ペテロも彼らと再会するでしょう。イエスさまとお会いするということは、彼ら仲間との再会をも意味します。しかも、懐かしい主の御国で、永遠の喜びとともに。彼のこの勧めから、迫害に苦しむ小アジヤやローマの教会の兄弟姉妹たちが、イエスさまを信じる信仰を守り通して、そのペテロの喜びを共有したであろうと想像するのは楽しいことです。


U 終末としての現在に

 終末ということで、ペテロの脳裏にあったと思われるもう一つのことを探ってみたいと思います。
 先々週、4節を見た時に少し触れたことですが、「神のご性質にあずかる者となる」というのは、創世記1章の〈神さまに似た者として創造された〉最初の人・アダムが念頭にあったのでしょう。アダムは神さまとともにあることを喜ぶ者として創造され、エデンの園という神さまのパラダイスで生きる者となりました。〈神さまの似姿〉については、以前にアダムのことを考えた時に、〈神さまのご性質の一部ではではなく、神さまが持っておられる最高のもの、愛も聖も義もひっくるめてその神さまのいのちのありったけが注ぎ込まれた〉(聖書の人物・旧約・アダムから)と聞きました。創世記2章にある「いのちの息を吹き込まれた」とは、恐らくそのことであったと思います。神さまはアダムを、宝物のように大切に思われたのです。この言い方でペテロは、イエスさまを信じ、信仰の故に神さまの御国に招かれていく者たちをアダムになぞらえ、神さまの大切な者たちであると宣言したのでしょう。信仰者たちは、イエスさまの十字架に贖われ、新しいいのちに創造された者たちなのです。その意味でペテロは、終末を、イエスさまの十字架とともにすでに始まっている出来事であると、意識していたのではないかと考えさせられます。

 この8-11節に現在のことが多いのも、そのようなペテロの意識によると思われます。「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」(8)「ですから兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません」(10) 宗教が現在のことだけを問題にしていくなら、現世宗教、御利益宗教に陥っていく危険性を伴ないます。そのような例に事欠かない現代ですね。「天の声です」と、何百万円も騙し取ったり、果ては人殺しまでしてして……。私たちの信仰も過去にそのようなたくさんの過ちを犯してきましたし、今もそのような危険性を含んでいると考えて良いでしょう。しかし、今というこの時が終末の中にあり、明日にもイエスさまにお会いするとなれば、どのような状態で主を迎えたら良いのか、それは私たちの最大の関心事になるでしょう。〈現在〉は私たちにとって、イエスさまにお会いするために信仰を整える準備の期間なのです。世のことに囚われ過ぎて、肝心なことが見えなくならないよう、気をつけていたいものです。


V 信仰の実を結ぶ者と

 ペテロがここで勧めようとしていることを、「これらのこと」と三回も言われている(8,9,10節)ことに注目して頂きたいのです。これは5-7節にある「信仰には徳を、徳には知識を……」という8つを言うと思われます。先週ここから、私たちがイエスさまを信じ、聖書に土台を置いていくなら、少しづつでも神さまの愛を持つ者に近づくであろうし、また、そうありたいと望む者になっていくだろうと聞きました。しかし、その愛が私たちの中に完成していくのは、イエスさまとお会いして、御国においてなのでしょう。しかし、ペテロは〈これらのこと〉を8節と9節では「備え」に、そして10節では「行なう」につなげています。明日にでもイエスさまにお会いするかも知れない今、ほんの少しであったとしても、ここに願われた事柄を私たちの信仰に重ねていくことこそ、イエスさまにお会いする備えだと、ペテロの勧めが聞こえて来るようです。

 しかし、気をつけて頂きたいのですが、10節に「ますます熱心に」とあります。時々、賛美、または祈りの時に、無我夢中の恍惚状態に陥っている人を見かけますが、そのようなエクスタシーを宗教最高の境地と考える人たちは、イエスさまを信じる信仰でなくとも良いのではないかと思ってしまいます。かつて、同じようなことを、日本古来の霊媒宗教に見たことがあります。ですから、この熱心ということには、特に気をつけて頂きたいのです。先週、5節の「あらゆる努力をして」というところで、それは〈段階を経て到達していく信仰の戦いに、あなたは参加しているか〉という問いかけであると聞きました。ここで言う熱心とは、〈その問いを自分へのものと聞いて、応答する〉ことでではないかと思います。私たちは今、ペテロから「あなたがたは、終末のイエスさまの前で、信仰の戦いに参加しているか」と問われる必要があると思うのですが、いかがでしょうか。その戦いから脱落しないようにと言う彼の警告も、現代の私たちへの言葉として聞きたいのです。「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです」(9)

私たちは、明日イエスさまにお会いするかも知れないから、自分の中に敬虔、兄弟愛、愛を積み重ね、「信仰の実を結ぶ者」(8)となることを目指しているのです。「イエス・キリストを知る点で」(8)とあるのは、〈イエスさまにお会いする時に〉と言い換えてよいでしょう。この〈知識〉が何を指しているかは、別の機会に触れたいと思います。実を結ぶために、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜びながら帰って来る」(126:5-6)と、詩篇の記者が叫んだことばを覚えたいと思います。信仰の戦いに涙や苦労はつきもので、戦いの武器のようなものです。しかし、神さまご自身が私たちの涙や叫びを見て、聞いていてくださることを覚えたいと思います。