ペテロの手紙 第U

愛ある信仰を育てて(24)

Uペテロ 1:5−7
ゼカリヤ 3:17
T 神さまの国の市民にふさわしく

 ペテロ第二の手紙を見ています。まだ1章ですが、細切れが続き申し訳けありません。今朝の箇所も内容がぎっしり詰まっていますので、5-7節と短く区切って見ていきたいと思います。細切れにしすぎて全体が見えなくなってしまうと困まりますが、本当は、この箇所は3-11節までがひとまとまりになっているのです。その意味で今朝のところも、このフレーズの中心主題に沿って考えていかなければならないでしょう。4節に「あなたがたがその約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」とあり、11節には「イエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられる」とあります。ここにこのフレーズの主題が浮き出ているのですが、イエスさまを信じる者たちは神さまの国に招かれているということです。第二の手紙全体がこの文脈上で語られていると思うのですが、今朝の箇所も、そのことを念頭に聞いて頂きたいと思います。

 5-7節に信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛と8つの項目が上げられていますが、〈信仰には徳を、徳には知識を……加えなさい〉と、一つ一つ積み重ねるようにこれらの項目が並べられています。これらをペテロはでたらめに並べたのではなく、信仰と徳、徳と知識、知識と自制……と関連付けながら、次第に神さまの国の市民としてふさわしい者に育っていくように、意図をもってそうしたのではないかと思われます。信仰から愛までをこのように段階的に並べた例が他にないので、今回もペテロの脳裏に何があったのかを想像しながら、一つ一つ見ていきたいと思います。


U 福音主義信仰と信仰の訓練とを

 第1に〈信仰〉ということからです。今、小アジヤの教会の人たちは、「迫害下にどのようにして信仰を守ったらいいのか」を最大課題にしていました。そして、これは十字架のイエスさまが私たちの罪を贖ってくださったと信じる信仰であると何度も聞いてきました。しかも、それは私たち自身から出たものではなく、イエスさまから恵みの賜物として与えられたものなのです。第2に、その信仰に徳を加えるように勧められています。徳とは、4節で「驚くべき御業・イエスさまの十字架」であると聞いてきましたが、ペテロは何度繰り返しても繰り返し足りないと思ったのでしょうか。この時、恐らくペテロの脳裏には、そのイエスさまを信じる信仰の危機に曝されている小アジヤの教会がありました。「あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになりました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(2:1)と、彼らの信仰は、十字架の贖い主を信じる信仰だとはっきりさせる必要があったのです。そして第3に、知識を加えます。知識とは、聖書に基づいた正しい知識を言っているのでしょう。1:19に「私たちはさらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗いところを照らすともしびとして、それに目を留めなさい」とあります。ペテロが質の高い聖書信仰に立っていたことを忘れてはなりません。私たちの信仰は、聖書に依拠するキリスト信仰です。現代流に言うならば、福音主義信仰、聖書信仰であり、最初の3つは、そのことをはっきりさせる第1群でしょう。

 第4に自制が加わります。忍耐、敬虔の3つを合わせ、これは第2群と呼んでいいでしょう。3節で敬虔を〈神さまとともに歩む信仰の歩みである〉と聞いてきました。それは、私たちの生涯をかけて訓練される信仰の歩みでもあります。きっと、自制も忍耐も、苦しいことの多過ぎるこの世での信仰訓練に、必要不可欠なものでしょう。そして、それ自体、私たちのイエスさまを信じる信仰の肝心要の部分であると教えているように思われます。しばしば、イエスさまを中心に見つめようとすると、この世の何もかもから解放され、大切なのは信仰、徳、知識であって、この世での生き方は枝葉のように思えてきます。ですから、迫害という異常事態の中で、現実にクリスチャンとしてどう生きるのかが重大な問いかけとなっている小アジヤの教会の人たちやローマのペテロたちと、今現在の自分たちがなかなか重なっていかない気がするのです。しかし、私たちの信仰は、蜃気楼のような実体のないものではないのです。信仰が口先だけであったり、知識だけであったりということは、たとえ現代でも、断固排除しなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。私たちの信仰は、神さまからも人からも、現実的具体的な実が徹底的に問われるのだと覚えておきたいと思います。


V 愛ある信仰を育てて

 最後の2つ、兄弟愛と愛は、第3群として区分されるところでしょう。厳密に言うなら、兄弟愛は第3群であると同時に、第2群の中でも考えなければならないものであると思います。自制も忍耐も敬虔も自分一人だけのことではなく、教会という神さまの民に招かれるところで問われる事柄だからです。最近、家族や学校や友人など、あらゆる人と人との間に、愛の欠如からと感じられる事件が多く起こっています。「不法がはびこるので多くの人たちの愛が冷えていく」(マタイ24:12)とイエスさまは言われましたが、それは教会の中にも当てはまります。過去、教会の中に様々な争いが起こってきましたし、今もそれをたくさん耳にします。不思議なことですが、兄弟姉妹という甘えがあるからでしょうか、しばしば教会外でもないような争いが起こってしまいます。この8つのことが信仰の訓練であるならば、同じイエスさまを信じる信仰にある兄弟姉妹を心底愛するようにということは、私たちの信仰の本質を問うことでしょう。第2群で確かめた信仰の歩みは、兄弟姉妹の愛を育てることで確立していかなければならないことであると思われます。

 しかも、それは愛という天国にも続く永遠の営みへの序曲でもあります。ここでペテロは兄弟愛の愛と、単に愛という言う言葉を使い分けています。兄弟愛は人を愛する有限の愛であり、〈愛〉はイエスさまの十字架を示す神さまの犠牲の愛を言う時に聖書が用いる言葉です。アガペーと呼ばれ、クリスチャン用語として普通に使われています。本当は、聖書はそれほど厳密な区別はしていないのですが、ペテロがこのような使い分けをするのには、私たちがこの神さまの愛を本当に内に秘めようとしているのかどうか、そのように高いレベルの信仰に到達したいという願いを持って欲しいとのペテロの願いが込められているように思うのです。信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を…とあります。自分にはないものを得ようと血を流すほどの苦闘を重ねても、ただ神さまの助けがあってこの愛ある信仰に到達していくのだと、ペテロのメッセージに耳を傾けていきたいと思います。「あなたがたは、あらゆる努力をして」とあります。信仰は神さまから与えられる賜物の筈ですが、それを「(私たちが)努力して」とはおかしなことだと思いましたが、このように段階を経て到達するのだと、その段階まで明確にされてみると、そのような信仰の戦いに参加することが大切だと分かるような気がします。なかなか育っていかない信仰者が多い中で、忠実に祈り、聖書を読み、礼拝を守り、自分自身と戦うことで、愛ある信仰者に育っていきたいと思います。多分終末、イエスさまにお会いした時に、この愛ある信仰が完成していくのでしょう。預言者ゼパニヤが聞いた主のことばを覚えたいと思います。「あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える」(3:17)