ペテロの手紙 第U

賛美しつつ主の大庭に3)

Uペテロ 1:4
詩篇 100 :1−5
T 十字架のイエスさまに重ね合わせて

 先週、3節の「栄光と徳」は、イエスさまの十字架の出来事を指していると理解しました。ペテロは、十字架におかかりになったイエスさまが、その十字架の贖いを信じた私たちに、永遠のいのちと神さまの御国に憩う特権を与えてくださると証言しているのです。そして、その証言は、彼の信仰告白であり、私たちへの祝福・イエスさまと彼からの祝福であったと聞きました。今朝は、その「栄光と徳」の続き、4節からです。「その栄光と徳によって、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」

 3節では、非常に分かりにくいということもあって、ペテロの脳裏に何が刻み込まれていたのだろうと、それを想像することから彼の思いに辿り着きました。4節も、そのようにしてでなければ、彼の思いが伝わってこないのではないかと感じています。まず、想像しながらですが、その思いを辿ってみたいと思います。

 「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っている」(1:14)とあります。この手紙はAD67年頃のものと思われますが、彼は、皇帝ネロによる、間近に迫った自分の殉教を見つめているのでしょう。2〜3ヶ月後にそれが現実となり、伝説では、逆さ十字架につけられて殉教したと伝えられています。しかし彼は、そのような自分の殉教に、すでに始まっている迫害で、連日、数え切れないほどのクリスチャンたちが殉教しているのを重ね合わせ、彼らの苦しみに思いを馳せていたのでしょう。ローマのコルセウムに送り込まれ、猛獣の牙に、剣に、火あぶりに、そして、十字架につけられた彼ら。その多くを彼は直接知っており、ご自身十字架上で苦しまれたイエスさまに、彼らの苦しみをご覧頂きたいと、切に主のあわれみを願っているのが感じられます。そして今、この手紙を書き送ろうとしている小アジアの教会の人たちに、「あなたがたの苦しみを、何よりも十字架のイエスさまがご存じである」ことを知って欲しいと、彼の祈りを伝えたかったのでしょう。


U 尊い殉教者たちの血の証しから

 そのような祈りの中で、ペテロには、十字架にかかる直前のイエスさまの声が響いていたのではないかと想像します。「まことに、まことにあなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(ヨハネ12:24-25) 実際に、それから30数年を経て、十字架のイエスさまを救い主と信じる人たちが世界中に起こされ、イエスさまの教会が建てられました。血塗られたこのローマの町にさえ、殉教した人たち以上の、たくさんのクリスチャンたちが生まれたのです。

 ローマ皇帝による最初のキリスト教徒迫害は、AD64年から68年にネロが失脚するまで続きました。迫害はきわめて激しいもので、殉教者たちは余りにも多く、ローマを退去する人たちもいて、一時はローマ市内からクリスチャンがいなくなったと思われるほどでした。「クオ・ヴァデス・ドミネ(主よ いづこに)」というペテロの伝説が伝えられています。迫害の渦中をともに過ごしながら彼らを励ましてきたペテロでしたが、傷心のあまり、「ここにはもう私の飼うべき羊はいない」とローマを離れようとします。ところが、アッピア街道を少し出たところで、よみがえりのイエスさまにお会いしました。「主よ。どこへ行かれるのですか」「あなたがわたしの民を見捨てたので、わたしはもう一度十字架にかかるためにローマに行くところだ」 それを聞いてペテロはローマに戻り、間もなく捕らえられ、逆さ十字架にかけられて殉教するというのです。ローマを離れようとしたことも、再びローマに戻ったことも、きっと事実だったのでしょう。いかにもペテロらしいと感じます。

 ペテロは今まで以上にイエスさまのことを語り、イエスさまの名によって人々を祝福し、気がついたら、失われたクリスチャンたちより多くの信仰者が誕生していました。彼ら殉教者たちの流した血の証しから、多くの実が結ばれたのです。まさに、一粒の麦が死んで、多くの実を結んだのです。これは、小アジヤのクリスチャンたちへの証言でもありましょう。栄光と徳に満ちた十字架の主の存在は、小アジヤでもローマでも、そして現代の私たちのところでも、信仰の苦闘をしている者たちへの慰めであり、祝福ではないでしょうか。


V 賛美しつつ主の大庭に

 〈実を結ぶ祝福〉ということを考えてみたいのですが、4節に〈わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています〉(新共同訳)とあります。この約束が何かはここでは分かりませんが、3:4に「キリストの来臨の約束」とあり、3:13に「私たちは神の約束に従って、正義の住む新しい天と地を待ち望んでいる」とあることから、終末の出来事を指していると分かります。この第二の手紙の中心主題は〈終末〉です。第一の手紙にあったこの約束の中心部分を思い起こして頂きたいのですが、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」(第一5:10)とありました。栄光と徳に満ちた十字架のイエスさまは、多くの殉教者たちが流し、そして流そうとしている血に、〈蒔かれた福音の種〉〈新しいクリスチャンが誕生していくための犠牲〉というだけではなく、血を流した彼ら自身にも尊い報酬をお与えになったのでしょう。〈実を結ぶ祝福〉とは、神さまの御国に憩うという永遠のいのちへの招きであり、その序曲である再臨のイエスさまにお会いできる約束ではなかったかと思います。彼ら1世紀のクリスチャンたちが、どれほどイエスさまとお会いすることを望んでいたか、考えて頂きたいのです。この21世紀の現代に、私たちにとって彼ら以上にイエスさまにお会いする時が近づいているのですが、その期待は却ってしぼんいるように感じられます。

 「その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」とあります。終末にはイエスさまにお会いすることが出来ると、喜びをもって待ち望む者たちにとって、この世との関わりが根本的に変えられたと承知しておかなければなりません。もちろん私たちにとって、この世に住み、その価値観の中で生きていくことは依然多いのですが、しかし私たちは、その価値観と運命共同体のように付き合うところから解放されたのです。その価値観と付き合ってもよし、しかし振り回されることはないのです。たとえ付き合わなくても、私たちは別のすばらしい価値観に満たされているのです。ところで〈世にある欲〉ということで、ペテロには一つのイメージがあったと思われます。〈世にある欲〉それは、今、彼らを迫害しているローマ人の生き方ではなかったでしょうか。世界征服者の中で、ローマ人は意外に淡泊な人種のようですが、それでも彼らの快楽主義は、人の欲に裏付けされたものだったでしょう。彼らはクリスチャンたちをこの世から抹殺しようと迫害に走りました。しかし、歴史という観点から見ても、滅亡していったのは彼らであって、イエスさまを信じる信仰は、世界の重要な役割を担うようになったことを忘れることは出来ません。まして、神さまの御国という永遠を舞台とするなら、その差は一層広がっているのではないでしょうか。イエスさまを信じる者たちが「神さまのご性質にあづかる者・もともとそのように創造された〈神さまに似た者にされる〉」光栄を覚えて頂きたいのです。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に」(詩篇100:4)と、その栄光と徳に招かれて行こうではありませんか。