ペテロの手紙 第U

イエスさまの祝福の声を22

Uペテロ 1:3
   申命記 26:16−19
T 日本語の翻訳から

 今朝は第二の手紙1章の続き、3-4節ですが、何回読んでも「うーん」とうなってしまほど面倒な言い方が続きますので、今回は3節だけからいくつかのことを考えてみたいと思います。ちょっとわき道にそれますがご勘弁ください。

 「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」 別の日本語訳をいくつか紹介しましょう。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心にかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」(新共同訳) 「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている」(口語訳)こう並べてみますと、何となく何か見えてくる気がいたします。煩雑に過ぎることは省き、一つのことだけに的を絞って、ここの日本語訳について考えてみたいと思います。

 「主イエスは、御自分の持つ神の力によって」(新共同訳)「主イエスの神聖な力によって」(口語訳)と、イエスさまと神さまとの関係について、新共同訳も口語訳も、何かその点があいまいにされているようです。ところが新改訳聖書では、「主イエスの神としてのみ力」と1節で極めて明確に提題された〈イエスさま=神さま〉のペテロの主張が、ここで繰り返されています。新改訳聖書はその点をはっきり意識し、「いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」お方は「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」であると、主体(イエスさま)を見失わずに訳すことが出来ているようです。日本語に少々難点も感じられますが、訳した人の信仰が明確に現われていて、どっしりと心に響いてくる思いがいたしました。聖書というものは、日本語云々の前に、どれだけ聖書の主張そのものが前面に押し出されているかが問われるのだと思います。私たちの信仰も同じことで、信仰のスタイルではなく、どなたをどのように信じるか、その中味が大切であると感じさせられたところでした。


U いのちと敬虔を

 今朝考えていきたいことの一つは、〈いのちと敬虔に関するすべてのこと〉ですが、〈いのちと敬虔〉という言葉をいくら調べも何も浮かび上がって来ませんでしたので、これを書いている時、ペテロは何を思っていたのだろうと想像してみました。彼がここで〈いのち〉と言っているのは、今、この手紙の受取人である小アジヤの教会の人たちが、厳しい迫害の中で苦闘していたからです。4年ほど前、第一の手紙が書かれた頃、既に殉教者が出ていましたが、二度目の手紙が書き送られたこの時、殉教者やその危機にある人たちは一層多くなっていたのでしょう。ペテロもその中の一人でした。ローマ皇帝ネロの手がそこまで伸びており、彼自身も数ヶ月後に殉教しようとしています。そのような中で、クリスチャンたちの関心は、どうすれば信仰を守りながら生き抜いていくことが出来るかということでした。今もそんな状況下に置かれている人たちがいます。ペテロはそんな人たちに、「いのちは神さまの領域である」と宣言しているようです。彼の信仰告白と感じます。どのように厳しい状況下でも、「あなたのことを心配してくださる」(第一、5:7)神さまがすぐ側にいらっしゃることを、忘れてはならないでしょう。そして、他人のいのちも自分のいのちも、「いのち」は神さまの領域であり、勝手に奪っていいものでは断じてないことを。近年、いのちがないがしろにされる事件・ニュースが余りにも多く、現代の私たちは、格別にその点をしっかり確立しておく必要があると思わされます。

 そしてペテロは、この〈いのち〉に関し、もっと踏み込んだ言い方をしているようです。先に、日本語訳聖書として(この部分は)新改訳が優れていると指摘しましたが、〈主イエスの、神としての御力は〉というところです。これは、神さまご自身としてのイエスさまが私たちにいのちを与えられるという、ペテロの証言であると聞こえます。彼の脳裏には、イエスさまの十字架によって罪赦された新しいいのちが刻み込まれていたと思われます。それは、単に肉体の機能が停止する死に対してのいのちではなく、神さまに招かれて実現する神さまの御国に憩ういのちであり、神さまとともにある永遠のいのち、「信仰のいのち」と言って良いでしょう。イエスさまを信じてバプテスマを受けた者たちは、神さまとともにある永遠の新しいいのちに誕生したのです。教会の名簿にだけではなく、神さまのいのちの書物にその名前が刻み込まれたのです。それは、厳しい迫害にさらされていた当時の信仰者たちへの、ペテロの祝福だったのではないでしょうか。もちろん、信仰のいのちですから、敬虔という信仰訓練が伴うと覚えなければなりません。敬虔とは、神さまとともに歩む信仰の歩みであり、迫害の中をどのように歩むのかという信仰者の問いかけ対するペテロの答えであったと思われます。


V イエスさまの祝福の声を

 もう一つのこと、3節前半の〈私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって〉とあるところです。

 これも、言葉の上からは何も出て来ず、ペテロの脳裏に何が焼き付けられていたのか想像するばかりです。かつて、ペテロはヤコブ、ヨハネとともにイエスさまについてガリラヤ北部の高い山に登っていき、イエスさまが栄光のお姿に光り輝くのを見たことがありました(マタイ17章、ルカ9章)。それは、イエスさまが十字架にかかるためにエルサレムに上っていく直前のことですが、ルカの記事から紹介しましょう。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである」(9:29-31) マタイはその並行記事を、栄光に輝くイエスさまとしてではなく、むしろそのような栄光をお捨てになったイエスさまを中心に描いているようです。これらの記事はもちろん、イエスさまに同行したペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちの証言がもとになったのでしょう。イエスさまにとって、十字架にかかることこそ最高の栄光でした。ペテロの脳裏に焼き付けられていた〈栄光〉とは、そのことだったのではないかと想像します。徳とは〈驚くべきみ業〉と訳し得ることばであり、栄光も徳も十字架そのものを指して言ったのではないかと思われます。この〈私たちをお召しになったお方〉は、十字架に私たちの罪を身代わりに背負い、死んでくださったイエスさまであるとして間違いないでしょう。その〈イエスさまを知ったことによって〉、いのちと敬虔が与えられたのです。知るとは信じることであり、イエスさまを知ることは単なる知識ではありません。イエスさまがご自分のいのちをかけて私たちを愛してくださったから、私たちも一生をかけて従い、他の人をも愛せるようになっていきたいと思うのです。

 この3節で、ペテロは十字架のイエスさまとともに、信仰の苦闘を続ける人たちを繰り返し繰り返し祝福していると感じます。もちろん、今の日本人クリスチャンの私たちに、迫害といった厳しい状況があるわけではありません。しかし、そのような先輩たちがいのちをかけて守ってきた信仰を、この大先達が同じようにいのちをかけて祝福したのです。その祝福のもとに、イエスさまを信じる信仰が脈々と受け継がれ、そして、その祝福はイエスさまご自身の祝福であり、細い声ではありますが、今も続いていると聞こえてきます。その祝福の声を聞き取っていきたいですね。