ペテロの手紙 第U

我らの神・救い主が21

Uペテロ 1:1−2
   イザヤ  54:7−8
T ペテロの励ましを

 ペテロ第二の手紙に入ります。第二の手紙は第一の手紙に比べると短いです。しかし、第一の手紙より緊迫感に溢れていて、長々と説明する時間がなく、必要最小限の事だけを取り上げたため、短くなったと感じます。それなりに緊張しながら、この書簡と取り組んでいきたいと思います。しかし、私たちの緊張もそう長続きはしないでしょうから、出来るだけ短く区切りながら見ていきたいと思います。

 第一の手紙から4年ほど経ったAD67〜68年頃のものであろうと推測されますが、この時期に、どうしてももう一度励ましが必要でした。それは、第一に、第一の手紙が書き送られたほとんど直後の64年から、ネロ皇帝による大規模なクリスチャン迫害が始まったためです。これはローマ市内だけでしたが、小アジヤでも、皇帝自身が……と知ったローマ人の、キリスト教徒迫害に拍車がかかったのでしょう。その意味で、以前とは比べものにならないほど、小アジヤの教会は危機的状況にありました。第二の手紙が緊迫感に溢れているのは、そうした事情によります。

 そして、状況は異なりますが、この現代においても、私たちの信仰が根底から問われる出来事が急増していると知らなければならないでしょう。それは、迫害ということではありませんが、離婚の増加、家庭や学級の崩壊、少年犯罪、自殺者の拡大など、誰もが心病んでいるのではないかと思われるほどストレスが溜まっている中で、世の人たちから、「イエスさまを信じるあなたたちは何をしようとしているのか」と問われていると思うからです。イエスさまを信じる信仰の持つ価値観が、「こんな時代にも、クリスチャンたちの生き方は間違いはない」と見つめられていることを覚えておきたいのです。不透明で、誰もがバラバラになっている今こそ、小アジヤの教会の人たち以上に、イエスさまを信じる信仰に正しく立っていなければならないと思うのです。

 この第二の手紙は、彼ら小アジヤの教会の人たちの苦闘に心を痛め、祈りながら書き送られました。激しい言葉や厳しい内容の並ぶ書簡ですが、その中から聞こえてくるペテロの暖かさ、そして現代の私たちへの励ましを聞いていきたいと思います。


U 何にも優る信仰に

 「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。神と私たちの主イエスを知る知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」(1-2)

 まず発信人と受信人を明らかにし、挨拶へと続く当時の手紙の定番スタイルです。この部分は第一の手紙とかなり違うようですが、まず、その違いから学んでみたいと思います。その第一は、最初の手紙では〈イエス・キリストの使徒ペテロ〉とある部分を、〈イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロ〉とかなり詳しく自己紹介していることです。本文中でも、最初の手紙でほとんど自分のことに触れなかったペテロが、この手紙では一人称の「私」を連発するほど自己PRをしています。第二は受取人のこと、第三は2節の挨拶の内容ですが、いづれも違いが目立ちます。一つ一つを説明すると、煩雑で、何が何だか分からなくなりそうなので省きますが、とにかく、第二の手紙のほうがより詳しい言い方になっているのです。普通、同じところに出す手紙なら、後のものほど発信人、受信人の挨拶は簡単に済ませると思うのですが、ペテロはそれを逆にしています。それで、或る人たちは、この手紙は小アジヤの教会宛てのものではないだろうと推測しますが、むつかしい議論は別にして、やはりこれは小アジヤの諸教会に宛てて書かれたものと思います。

 第一の手紙から、彼らの苦闘する様子をずっと見て来ました。既に殉教者も出ています。そして、迫害は収まるどころか益々ひどくなっています。しかし、それにもかかわらず、教会には新しいクリスチャンたちが誕生していたと想像されます。ペテロがこの挨拶で、〈私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ信仰を受けた人〉〈神と私たちの主イエス・キリストを知ることによって〉と、第一の手紙に勝って信仰の確認を行なっているのは、この手紙を読む人たちの中に、第一の手紙が書き送られた当時の教会を知らない人たちがいたからと思われます。勿論、第一の手紙当時のクリスチャンたちも信仰を守り通し、残っていたでしょう。しかし、迫害下に、いのちの危険に曝されながら、なおイエスさまを信じて教会に加わる人たちがいたのです。ペテロがこの手紙を書き送った最大の理由は、そこにあるのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、どんなことにも優ると覚えながら、彼ら先人たちの信仰に敬意を表したいと思います。


V 我らの神・救い主が

 ここから一つのことを聞いておきたいのですが、少し説明を要します。「神であり救い主であるイエス・キリスト」(1)と、「神と私たちの主イエス・キリスト」(2)です。実はこの2カ所は同じ言い方ですが、新改訳聖書は違う訳にしています。機会があればどうしてか聞いてみたいのですが、「神さまとイエスさまとは別の存在のように訳すべきだ」と主張する人があり、一方、両方とも「神すなわち主イエス・キリスト」という訳を用いる人もいます。どちらが正しいのか分かりませんが、ペテロの手紙全体を読んだ印象から言えば、2箇所とも「イエスさまは私たちの神さまだ」と明確にした方が良いのではと感じます。繰り返しますが、「神、すなわち救い主イエスさまを信じる信仰を受けた人たち」にこの手紙が書き送られたと理解したいのです。私たちの信仰は、イエスさまの十字架とよみがえりを通して生まれました。その信仰はイエスさまに向かって〈主〉と告白されたものであるというペテロの意識が、この手紙全体に流れていることは間違いないでしょう。

 ですから、1節と2節に表現の違いがあっても、「ペテロと同じ信仰を受けた」ことを言っていると受け止めて良いでしょう。〈受けた〉とあるのは第一の手紙で〈選ばれた〉とあるのと同じ意味で、神さまがその信仰を与え、導き、救いに入れてくださったということです。それは私たちの信仰ではなく、「信仰は自分自身から出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)であり、「イエス・キリストの信仰」(ロマ3:22、ガラテヤ3:26 新改訳では「イエス・キリストに対する信仰」と訳されている)ということです。イエスさまを信じる信仰は、イエスさまご自身から来ているのです。これがペテロの信仰の基本になっているのでしょう。与え、選んでくださった神さまが同じだから、世界中のクリスチャンたちは同じ信仰に立つことが出来るのです。ペテロが小アジヤの教会の、新しく生まれたクリスチャンたちに、「あなたがたは私たちと同じ信仰に招かれたのだ。殉教していった勇者たちや、今一緒に苦闘している信仰の先輩たちと同じ信仰に」と語りかけるその声を、現代の私たちも聞いていかなければと思うのです。

 特に、ペテロは2節で「私たちの主イエス・キリストを知ることによって」と言っています。これはユダヤ人の感覚で〈体験する〉というニュアンスです。イエスさまを体験していくという意識は、今、猛烈な迫害の中に置かれている人たちにとって、実に強烈だったでしょう。苦闘して来たペテロと「同じ信仰」に立つことは、体験なのです。その体験を、誕生したばかりの信仰者たちが味わいつつあります。「恵みと平安が豊かにありますように」との挨拶が通り一辺のものではないことが伝わってきます。イザヤとともに、「『わたしは、大きなあわれみをもってあなたを集める。永遠に変わらぬ愛をもって』と言われた神さま、救い主・イエスさまが、どのような困難や混乱の中にあっても、私たちのそばにいてくださる」と告白していきたいと願います。