ペテロの手紙 第T

神さまの住まうところに(2)

Tペテロ 1:3−12
詩篇  43:3−4
T 選び出された人たち

 先週、1-2節から「選ばれた人たちへ」と見てきましたが、先週触れなかったことを少し付け加えておきたいと思います。聖書の中に〈呼び出された者〉という言葉があります。これは日本語で〈教会〉と訳されているものですが、選ばれるという言葉が何種類かある中で、ペテロはこれと同じソースの言葉を用い、彼ら小アジヤの教会の人たちを〈選ばれた者〉と言っています。ペテロが自分を使徒と言っているのも同じ意味と思われますが、イエスさまの十字架によって罪を贖われ、救われた者たちは呼び出された者であるという彼の信仰です。どこからどこへ? 罪にまみれたこの世から神さまの民としてその御国へです。呼び出され、選び出される資格が自分にあったというのではなく、只、神さまがこんな者をあわれみ、苦悩と悲しみと痛みの中から贖い出してくださったと、みことばに聞いてきたのです。ペテロ自身も頑固で無学、がさつで問題ばかり引き起こすような者でしたが、そんな自分をイエスさまの福音を持ち運ぶ者に選んでくださったと、それが彼の信仰の土台になっていたと思われます。そんな彼が今、ローマの迫害に会っている人たちに、「神さまの群れの者として選び出された者たち」よ、信仰の歩みを確かなものにしていこうではないかと、勧めているのです。それがこの書簡の目的であったろうと思われます。信仰者たちが見つめるものは、見えるものばかりを手にしようと願うこの世の人たちとは一線を画しているのではないでしょうか。


U 今の私たちへの救いの手

 1-2節の短い挨拶の後、すぐに本文に入り、今朝は1:3-5からです。本来3-12節はひとかたまりなのでしょうが、そこには二つのことがあるようなので、今朝はその前半だけを取り上げましょう。

 彼はここで(3-12)、実はこれこそこの手紙の中心なのですが、いきなり〈救い〉ということを問題にしています。「……終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」(5)「これは信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。この救いについては……」(9-10)と、本論に入ってすぐこれを持ち出したのは、長い挨拶を繰り返す時間の余裕のない、迫害に直面した彼らの状態がせっぱつまっていたからと思われます。既に何人もの殉教者たちが出ていました。彼らがペテロにアドバイスを求めたのは、〈迫害の中でイエスさまを信じる信仰をどのようにして守り通したらいいのか〉ということだったのでしょう。とかく、私たち現代人はそれを、迫害をどう避けたらいいかというノウハウの問題として考える傾向があるようです。教会を建て上げることについても、どうしたら多くの人を集めることが出来るか、また、牧師や役員の当たりはずれが問題にされたり、お金集めに知恵を絞ることで会堂を建てようと、あたかもそれが信仰の本質ででもあるかのように思いこんでいます。しかし、恐らく、それは私たちのとんでもない勘違いで、イエスさまを信じる信仰や教会が、この世の知恵や経営努力で成り立つものではなく、またそうあってはならないと思うのですが、いかがでしょうか。

 今、ペテロは、迫害にあっている人たちを〈選ばれた人々〉と呼び、イエスさまの教会に招かれた人たちを、この世から呼び出された者たちだと念を押しているのでしょう。それがこの手紙を書き送ろうと願った彼の祈りから生まれた答えでした。彼は、イエスさまを信じるということを、掘り下げていくのです。イエスさまを信じるとはどのようなことか、また、信じた結果はどうなのか。そこまではっきりさせなければ、激しい迫害をくぐり抜けていくことは出来ないと考えたのでしょう。そしてそれは、現代の私たちにとっても、徹底して問いかけていかなければならない最重要な問題であると感じます。今、彼が問題にしようとするのは〈救い〉でした。それは、イエスさまを信じる信仰の中で、最も大切な部分だからです。

 その救いの一つの面は、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており」(5)とあるように、神さまは私たちの現在に心を砕いてご介入してくださるいうことです。〈選ばれた者〉・〈呼び出された者〉と言って、教会が私たちの救いに関与するのは、神さまご自身がそのような救いの現在性を大切にしてくださるからなのでしょう。そうです、〈神さまが私たちのことを心配してくださる〉のです。それがイエスさまの救いの原点でしょう。


V 神さまの住まうところに

 とは言っても、イエスさまの救いは、私たちの現在だけをいうものではありません。そのことをしっかり理解しておかなければ、迫害という異常事態を、単なるテクニックで切り抜けようとする愚に陥るでしょう。ペテロはここで、救いということの彼岸性を断固主張しています。3-4節に、「神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」とあるのは、その彼岸性です。彼岸性などとむつかしい言葉を使いましたが、〈選ばれた〉・〈呼び出された〉というそれは、〈この世から〉全く違う神さまの世界にであり、彼岸はそのことを指しています。これ以上適当な言葉を思いつかなかったのでご勘弁ください。二つの手紙を通して、ペテロはほんのわずかしかこの言葉を用いていませんが、〈この世〉がローマ人の快楽的生き方を指していることは間違いないでしょう。そして、それは現代人の生き方に通じていると思われます。また、−神さまの存在に異議を申し立て、教会内に人間の醜い争いを持ち込み、イエスさまを信じる信仰を宗教心という一言で片づけてしまう−それは、神さまの御国という彼岸ではなく、こちら側(此岸)、この世に属することではないでしょうか。肉的と言ったほうがいいかも知れません。何よりも、救いは神さまに属する出来事なのですから。

 けれども、彼岸を、それは死の彼方にあるものと、もしかしたら手の届かないものへの憧れに映るかも知れません。殉教もそのところで考えることがあるかと思います。しかし、そうではないのです。この救い・生ける望みには確固たる保証があるのです。「イエス・キリストが死者の中からよみがえれたことによって」とあります。イエスさまが十字架におかかりになった時、ペテロは遠くに逃げ出していましたが、その彼が、信頼に価する者として立つことが出来たのは、よみがえりのイエスさまにお会いしてからでした。〈主の復活の証人とならなければならない〉と誕生直前の教会で第一声を上げたのはペテロです。私たちのイエスさまを信じる信仰は、そのイエスさまに対するものであるとはっきりさせておかなくてはなりません。十字架に私たちの罪を赦し、死からよみがえった栄光の主こそ私たちの救い主なのです。私たちは、そのお方のおられるところに招かれようとしているのです。詩篇の記者はこう歌いました。「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き、聖なる山、あなたのいますところにわたしを伴ってくれるでしょう」(43:3、新共同訳)  救いとは、神さまのお住まいに招かれることであり、そこに生き生きした望みを持つことこそ、苦難や迫害に打ち勝つ信仰の歩みなのです。