ペテロの手紙 第T

回復の主を見つめて19

Tペテロ 5:6−11
     詩篇 119:71−72
T 現在の信仰の戦いを

 ペテロの手紙を続けておりますが、この手紙を見ることになった動機を改めて繰り返しておきたいと思います。それは、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(5:7)と言われる、〈私たちのことを、ご自分のいのちを差し出すほどに心配してくださる〉神さまの愛に心惹かれたからです。その神さまにぴたりとついていたいと願い、ペテロのメッセージをもっと聞きたいと思ったのです。ペテロの意識の中心にもそれがあって、だからこそ、今、信仰の戦いをしっかり戦いなさいと勧めているのです。

 ペテロは現在の信仰の戦いを、と言っています。いくつものことを聞いてきましたが、ペテロはこれが最後の勧めであると感じているのでしょう。言ってきたこと、言い足りないことを、ここで一気に吐き出し、この短いところに、彼の思いが凝縮しているようです。「へりくだりなさい」(6)「思い煩いを神にゆだねなさい」(7)「身を慎み、目をさましていなさい」(8)「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(9)と彼の熱い思いが並べられていますが、〈へりくだり〉は、罪との戦いをくぐり抜けて身についていくものでした。だから「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と言い、彼の勧めの中心は、神さまに結びついているようにということでした。〈思い煩いを神さまに……〉〈身を慎み……〉も、そのような罪との戦い、信仰の戦いから生まれて来るもので、〈信仰に堅く立って〉ということなのでしょう。今、私たちの周り至る所に「ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めて歩き回る悪魔が」私たちの信仰の隙を窺っていることを承知したいのです。彼は、私たちからイエスさまを信じる信仰を取り上げようと画策しています。そのために彼は、この世の教え、宗教、科学……あらゆる価値観をもって、私たちを神さまのみことばから切り離そうとするだけではなく、教会の中にも様々な問題の種を抱えて入り込んで来るのです。何が信仰の戦いであるのか、又、私たちが守り抜いていこうとする信仰はどのようなものか、祈り、聖書を毎日読み、聖書に根ざして考えていくという信仰者の価値観を確立しておきたいと思います。テサロニケの教会の人たちは、そのように「日々聖書を調べ」(使徒17:11)ていたのです。


U 神さまの恵みに

 〈神さまに結びついていること〉が、この手紙で勧められる中心であると繰り返し言って来ました。ペテロはそれぞれの勧めにこう付け加えています。「神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです」(6)「神があなたがたのことを心配してくださるからです」(7) そして、彼の思いが頂点に達します。10節です。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」

 〈あらゆる恵みに満ちた神〉とあります。私たちお造りになった神さまは、天地万物を創造されたその英知を傾けて私たちを守り、ご自分の民でいるように心を砕いてくださるのです。あらゆるとは、そのような神さまのありったけの愛が私たちに注がれているという宣言でしょう。イエスさまの十字架に、その神さまの愛が凝縮されました。〈すなわち……〉とは、イエスさまの十字架によってご自分の御国に私たちを招き入れてくださったことを意味しています。「彼の永遠の栄光の中に」と約束され、神さまだけが持っておられる輝きに招き入れてくださったのです。過去の出来事のように記されていることに気をつけて頂きたいのですが、これは神さまが決定されたことなのです。私たちの弱さも、クリスチャンらしくないことも、それが問われることはないのです。神さまが決定されたことですから、変更はありません。「神さまがちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」とあり、「神さまがあなたがたのことを心配してくださる」とあります。その神さまを見つめていたいと願います。最高のお方に見つめられ、心配されていることを、心に刻んでいようではありませんか。


V 回復の主を見つめて

 しかし、そのような神さまの守りの中にあっても、彼ら小アジヤの教会の人たちは、迫害という厳しい現実の中でさまざまな苦悩を抱えているのです。ペテロは苦しみという問題を取り上げます。

 現代の私たちも苦悩で一杯です。しかも、イエスさまを信じることが苦悩の原因となることがあります。苦しむことを嫌って信仰から離れる人たちもいますが、しかし、考えてみたいのです。ここに言われるのは、信仰の戦いにおける苦しみです。「善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです」(2:20)と言われたことを思い出して欲しいのです。信仰がイエスさまの苦しみを共有することであるとしたら、信仰故の苦しみは、信仰者の光栄ではないでしょうか。苦しみをどのように受け止めるのか、パウロの言葉を聞きましょう。「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(コロサイ1:24) キリストのからだとは教会のことです。もう一カ所、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じるだけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」(ピリピ1:29)とあります。〈賜わる〉とは、恵みと同じ言葉から来ています。私たちにとって、苦しみは悪いことだという意識があるかも知れませんが、しかし、必ずしもそうではないのです。ここには記されていませんが、きっと、苦しみを通り抜けることで、イエスさまの十字架を苦しまれた、神さまの思いに近づいていくことが出来るのでしょう。そうです。神さまの恵みに近づいていくことが出来るのです。信仰の苦闘は、そのところで理解しておかなければならないでしょう。

 しかしここでペテロは、これとは違った観点から苦闘を続ける人たちへの慰めを語っています。「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」彼の意識の中心は、あくまでも神さまに結びついていくことなのです。

〈完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる〉とありますが、何となくしっくりこないので別の訳を見てみました。キリスト新聞訳では、「あなたがたを、キリストにある永遠の栄光に召し給うた恵みにみてる神は、あなたがたのしばらくの苦難の後、自らあなたがたを取り戻し、しっかり立たせ、力づけてくださるであろう」となっています。〈完全にし〉というところを、〈取り戻し〉と言っています。口語訳では更に具体的に〈いやし〉と訳しています。神さまは、必ず私たちの苦しみをいやし、回復してくださるのです。同時に、その苦しみ故に私たちを一層慈しみ、ご自分の民として、私たちの信仰の道筋を真っ直ぐに整えてくださるのです。そしてそれは、御国への道につながっているのです。苦悩は神さまの賜物である。だから、それを喜びとしなさいと言われるのです。しかし、凡人の私たちには、なかなかそれを素直に喜ぶことはできません。しかし、一緒に苦しんでくださる主がそばに居られ、その苦しみの先に希望があると聞くならば、耐えていくことが出来るのではないでしょうか。

 苦しみが一人一人違うように、信仰の戦いも同じではないでしょう。人それぞれの事情があり、立ち向かえる者もいれば、そうではない弱い人もいるでしょう。しかし、罪との戦いであれ、この世の価値観との戦いであれ、戦い方は同じなのです。詩篇のことばを聞きましょう。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです」(119:71-72)