ペテロの手紙 第T

心を込めて互いに18

Tペテロ 5:1−5
詩篇 119:9−12
T イエスさまの苦難の証人に

 今、ペテロから、迫害に苦しんでいる小アジヤの教会の人たちへ、イエスさまにお会いするという希望を背景に、信仰の戦いを戦い抜いていこうではないかと勧められています。いくつものペテロの勧めを聞いてきましたが、今朝は教会の長老たちへ、そして長老以外の人全てを含んで言われていると思われる若い人たち(5)へという勧めから、彼らが直面している信仰の戦いを探ってみたいと思います。

 最初に前書きのような部分ですが、1節の「そこで私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします」とあるところから考えていきましょう。

 ペテロは自分を、〈キリストの苦難の証人〉、〈やがて現われる栄光にあずかる者〉と二つの言い方をしています。これはペテロだけについて言われるのではなく、長老たちも、また若い人たちも同じようにその任に召され、その約束に預かっているということです。今、ペテロは、イエスさまにお会いする時=終末、神さまの御国でのことを見つめながら、現在の信仰の戦いをと勧めているのです。実際に、小アジヤの教会の人たちは、天国の市民であると同時に、地上の教会で苦難の信仰生活を戦っていました。この二つのタイトルを並べたところに、彼の思いが見事に凝縮されていると感じます。キリストの苦難とは、勿論イエスさまが私たちの罪のために十字架に苦しみ抜いてご自分のいのちをささげてくださったことを指しているのですが、同時にペテロは、イエスさまを救い主と信じ、信仰の苦闘を続ける者たちをここに重ね合わせているのでしょう。信仰の戦いを戦い抜いていくことで、どれほどイエスさまの十字架の苦しみが私のためであったと覚えることが出来るか、私たち自身も苦しむことを通して、イエスさまの苦しみの証人になっていくのだということを理解して欲しいと願っているようです。苦闘している彼ら小アジヤの教会の人たちを、その苦闘故に「彼らもあなたの十字架の証人です」と、主に向かって証言しているのでしょうか。しかし、そのような信仰の苦闘を続けている人たちは、現代の私たちをも含め、やがて栄光の冠を頂くことになるのです。恐らく、現代の私たちにも、信じるが故の同じ苦闘が伴って来るでしょう。しかし、イエスさまを信じる信仰には希望の約束があることを、しっかりと心に刻みつけておきたいのです。


U エゴーを捨てて

 小アジヤの諸教会が今、どのような〈信仰の戦い〉の中にあり、また、どのような〈信仰の戦いを〉ペテロから勧められているかを考えてみましょう。ペテロは長老たちに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい」(2)と言い、若い人たちには「長老たちに従いなさい」(5)と勧めています。しかし、「あなたがたはすべての悪意を捨てて」(2:1)、「つぶやかないで、互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(4:9)などを見ていますと、教会の中に、互いの悪口を言い合い、反目し合うような争いがあったのではないかと思われます。間違った教えを取り入れた人たちではなく、正常な信仰に立っている筈の人たちの中に、そのような悲しい問題があったということです。迫害という異常事態の中で、やり場のない悲しみがぶつかり合っていたのではないかと想像します。当時のクリスチャンたちは、純粋にイエスさまの証人でありたいと願いながら、しかし、そのような事態に陥っていたのでしょう。この2000年の歴史を見ても、教会というところはいつも純粋というわけではなく、そのような争い、憎しみ、妬みなどと決して無関係ではありませんでした。現代教会も例外ではないでしょう。他のどんなところより純粋で、正しく、清らかで、愛があり、互いに許しあって……、それが教会であると誰もが考え、そうありたいと望んでいるのですが、そんな理想とは裏腹に、教会に来てしばらく経つと、それぞれのエゴーのぶつかり合いが目について、自分もまたそのような罠に陥ってしまうのです。イエスさまを信じているということが、サタンのターゲットにされていると感じるほどです。

 しかし、一つのことをしっかりと覚えておかなくてはなりません。たとえ私たちの中に争いや妬みや憎しみ、欲望など悪い思いがあったとしても、それはサタンからそそのかされて抱いたものだと、言い訳けすることは出来ないのです。その罪は私たちが犯したものであると、私たちはその責任を問われると覚悟しなければなりません。だからこそペテロは、「強制されてするのではなく、神に従って、自分からそれをしなさい」(2)と言い、「みな互いに謙遜を身につけなさい」(5)と言って、信仰の戦いが自分の中にはっきり意識されていくよう勧めているのです。非常に単純なことですが、信仰とは何よりも、自分がしがみついているエゴーを捨てることです。そのためにイエスさまが十字架にご自分のいのちを献げてくださったのですから。その上で他の人も主の民であると認め、愛していくことです。


V 心を込めて互いに

 もう一つのことを考えてみたいのですが、2節に「強制されてするのではなく」、「卑しい利得を求める心からではなく」とあります。長老たちの一部にそのような人がいたのではないかと悲しくなりますが、長老たちばかりではなく、これは信仰者全体の問題でもあったでしょう。特にそれは、教会堂建設に何億というお金が動き、牧師がサラリーマン化していると言われる、現代の教会に起こる得る問題ではないかと思います。ある教会では、年間に何人洗礼を受けたかで次年度の牧師のサラリーが決まると聞きました。イエスさまを信じる私たちは工場生産のロボットではないのです。

 ペテロはそんな風潮の広がりに心を痛め、「(賃金目当ではなく)、神に従って、自分から進んでそれをなし、心を込めてそれをしなさい」と勧めます。〈心を込めて〉とは、口語訳聖書では「本心から」、新共同訳では「献身的に」、キリスト新聞社訳や永井訳などでは「喜んで」となっています。そういった全部の要素を含む「心を込めて」という訳が一番良いように思われますが、「自分から進んで」というところが、更に強調された言い方なのでしょう。イエスさまを信じる信仰は意志的なものであると何回も言って来ました。〈イエスさまを信じる〉と決心するかしないかが問われているのです。信仰者の奉仕の業もそれと同じでしょう。

 小アジヤ教会に発生していた争いでペテロが一番懸念したのが、エゴーのぶつかり合いではなかったかと思われます。ペテロはそれを「心を込めてしなさい」ということで、見事に核心をついています。残念ながら、この手紙を読んだ人たちの反応、結果が報告されていませんが、全部とは言えないまでも、クリスチャンたちの多くが、心を込めて互いに愛し合い、赦し合い、慰め励まし合い、仕え合ったのではないかと想像します。4節には、長老たちが群れの模範になり、若い人たちはへりくだって長老を支え、そのように栄光の冠を獲得しようと願い……と、ペテロの期待が膨らんでいる様子が窺えます。しかし、第二の手紙では、事態はもっと悪い方向に走っているようです。

 詩篇119:10には「私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください」とあります。この詩篇の記者が心を込めたのは、何よりも神さまに対してでした。神さまのみことばを心を込めて聞いているから、他の誰に対しても誠実でいられるのです。そこにはサタンがつけ込んで来る隙はありません。そのような信仰の在り方を志していきたいと願います。