ペテロの手紙 第T

へりくだって心砕かれた者に17

Tペテロ 4:15−19
イザヤ 66:1−2
T 神さまの前において

 イエスさまにお会いすることを見つめながらいくつかの主題を掲げ、現在の信仰に生きることを勧めるペテロの、三番目のテーマに入ります。一つ目は7-11節で教会をテーマにし、二つ目は12-14節で信仰の戦いが語られました。小アジヤの教会の人たちに、今、ローマの価値観が挑戦しています。しかし彼らは、戦いの本当の相手は、ローマ人ではなく、自分自身の中にイエスさまの十字架の苦しみと恵みを共有しているかとの問い掛けであり、聖霊なる神さまが信仰の喜びを膨らませてくださっているかという、自分の内面にあることを知らなければなりませんでした。見つめるところが神さまであり、イエスさまとお会いすることであるなら、迫害も、そして殉教さえ小さなことに過ぎません。しかしペテロには、そんな戦いが次第に後退していくように感じられたのでしょう。一部の教師たちが提案する、妥協という信仰姿勢が勢いを増す様子を、悲しげに問い掛けます。

 三番目のテーマはそのことです。きっと、彼らは何度も集まってはあれこれと相談していたのでしょう。悪いのは迫害者たるローマ人だと、事ははっきりしています。「時が来れば、神さまが彼らをお赦しにはならないだろう」と、自分たちを慰めていたのでしょうか。彼らは終末に神さまの裁きがあることを聞いていたからと、これは私の勝手な想像ですが、これがペテロに相談する前の彼らの在り方ではなかったかと思います。しかし、いくら愚痴をこぼしても解決にはなりません。ようやく、信仰をどのように守ったらいいのかと大切なところに気づき、ローマにいるペテロに使者を送って、アドバイスを求めたのです。

 「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう」(17) ペテロは彼らの状況を聞いていました。それで彼は「神さまの裁き」に言及します。〈福音に従わない人〉や〈神を敬わない者や罪人〉のことがこのように言われるのは、きっと彼らへの配慮でしょう。しかしペテロの勧めの中心は、彼ら自身がまず神さまの前に出なければならないということでした。信仰とは、他の人の問題ではなく、神さまの前における自分のことなのです。ここでペテロが指摘する信仰の戦いは、何よりも自分自身の内にひそむ罪との戦いであるということでした。


U 罪との戦いを

 彼らの問題点はたくさんありました。ペテロはこれまで信仰者の基本的な姿勢を言ってきましたが、〈罪との戦い〉という信仰の中心を取り上げようと、更に具体的問題に踏み込んできます。彼は5:5まで、いくつもの具体的な問題を取り上げているようですが、その最初、15節にこうあります。「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません」 今までに言ってきたことをもう一度繰り返しますが、イエスさまを信じた信仰は、私たちをあらゆる事柄から自由にするのです。罪から自由にされたのですから、信仰の良心をもって判断するなら、何をしても咎められることはないのです。しかし、私たちには、神さまが定められた最低の基本的戒めがあることを忘れてはなりません。出エジプト記20章にある十戒がその基準です。今、ペテロが並べた人殺し、盗人という戒めは、その基本律法に挙げられており、恐らく戒め全体を指す「悪を行なう者」の代表格なのでしょう。絶対悪と言って良いかと思います。彼らの教会にそのような悪に走る人たちが実際に居たとは思われませんが、妥協の信仰に向かうことで、迫害者の悪に荷担していると叱っているペテロの声が聞こえて来るようです。

 今、現代の私たちの周りに、その神さまを基準とした絶対悪が認識されていないのではないかと思われる事件が次々と起こっています。価値観が自己中心になった現代は、その行き着くところまで来てしまったのでしょうか。現代という時代は、絶対悪そのものを認めないのでしょうか。それは、神さまを認めないことと同じ根であろうと思われます。しかし、ペテロが言うまでもなく、私たちには十字架について罪を赦してくださったお方がおられるのです。そのお方を見つめるなら、何が罪で何がだめなことか、正しく判断することができるでしょう。そんな信仰者でいたいと願います。


V へりくだって心砕かれた者に

 ここに並べられていることにもう一つ、「みだりに他人に干渉する者」ということがあります。十戒には含まれていないのですが、これはここで〈人殺し〉〈盗人〉〈悪を行なう者〉と同列に並べられています。ペテロはきっと、これが小アジヤ教会の特別に重要な問題だという意味を込めて、ここに並べたのではないかと思われます。彼らの教会で、ローマ人に妥協する信仰姿勢を提案した人たちは、恐らく自分たちに同調しない人たちの一途な信仰に一種の羨望を感じながら、その人たちの信仰のあら探しをしたのではないかと推測されます。人は時として、自分を正当化するために、他人を陥れたくなるものでしょう。〈他人に干渉する〉とは、その意味においてではないかと思われます。これは〈他人〉+〈監督者〉の合成語で、彼らの熱心さと正統でありたいという思いが伝わって来ます。出来れば反対者たちを自分たちのところに取り込みたいと、どうしても彼らは自分たちの意見を押しつけたかったのでしょう。それが無理なら、その人たちを多数派の力で葬ってしまいたかった。多数派であることで、自分たちの正しさを証明しようと願ったのでしょう。これは、現代人の、神さま抜きの民主主義の落とし穴でもあろうかと思います。私たちもしばしば、何の疑問もなく自分は正しいと信じ込んで、他の人たちのやっていることに口を挟むことがあります。しかし、信仰の最大の原則は、神さまとその人自身が直接関わることです。その間に踏み込むことは、誰にも許されることではありません。今、ペテロは信仰者たちへの勧めをしているのですが、〈みだりに他人に……〉と、それが絶対悪に等しいと断じたのは、その意味においてでした。信仰の本質に関わることだからです。

 くどくなって焦点がぼけてしまったようですが、信仰の戦いは、他の人たちを巻き込んで行われるものではなく、何よりも自分自身の内面と向き合うことなのです。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい」(16)とあるのは、そのような信仰の戦いを戦っている人たちが彼らの教会にいたことの証言でしょう。〈キリスト者〉とは、19節にあるように、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実にあられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と、神さまを認め、神さまに従い、たましいの一切(全人格)を神さまに任せる信仰を得た者たちのことです。イエスさまの十字架に罪を贖われたことで、あなたは神さまの民に加えられたと言われているのでしょう。

 預言者イザヤのことばを聞きましょう。「主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66:2) 罪との戦いを経験していくと、いやでもへりくだることを教えられます。自分は人にあれこれ言う資格のない者であることがはっきりして、立つことが出来なくなってしまうほど、まさに〈心が砕かれた者〉になるのです。しかし、そのような者にも主の目が注がれるという約束、慰めがあります。その約束に慰められます。