ペテロの手紙 第T

信仰の戦いを戦い抜いて16

Tペテロ 4:12−14
ヨシュア 5:14−15
T  愛する人たちへ

 第一の手紙を閉じようとして、今、その最後の部分に入っているのですが、ここでペテロの勧めの中心的テーマは、終末、とりわけイエスさまがもう一度おいでになるということでした。間もなくイエスさまにお会い出来るとわくわくしながら、ペテロは小アジヤの教会の人たちに信仰の勧めをしています。イエスさまを信じる信仰者たちの最大の願い・最高の喜びは、イエスさまにお会い出来るという望みであって、その喜びに比べたら、迫害という異常事態も小さな出来事に過ぎない。その希望を見つめながら、このように現在を生きなさいという勧めです。いくつかのことに的を絞って、第一に、4:7-11で教会が取り上げられました。イエスさまが十字架によって私たちへの愛を込められたように、互いに愛し合い、不平を言わず、喜んで仕え合い、そして、何よりも主を賛美しなさいというのです。賛美は、神さまの御国でいつまでも残っていくのでしょう。神さまを賛美するという、信仰者の最高の価値観を覚えたいですね。

 今朝は二番目の12-14節からです。迫害という厳しい試練の中での信仰の戦いという、この手紙の最重要項目である切実な問題にさしかかります。最初に、「愛する者たち」(12)とあるところからです。ペテロのこの呼びかけは、第一の手紙ではここと2:11の2カ所ですが、第二の手紙では終わりの部分に4回も集中しています。「これが最後の勧めです。よくよく聞いて欲しい」と、彼の切実な願いが伝わって来る言葉ですが、同時に、迫害の渦中にある人たちへの、彼の共有する痛みがにじみ出ているようです。勿論、イエスさまを信じる信仰は、各人がイエスさまの十字架に、罪の赦しと永遠のいのちの希望を聞いて信じたものです。それは当時のクリスチャンも2000年後の私たちも全く同じですが、ペテロはイエスさまから託されて福音を伝え、そして、信じた群れのために祈って来たのです。「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)と言われたイエスさまのことばは、彼の心にずっと響いていたのでしょう。彼らの苦しみは、ペテロ自身の痛みでした。「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火のような試練を」(12)とあるのも、既に殉教者が出たほど彼らへの迫害が厳しかったからですが、彼らの苦しみを共有しているからこそ生まれた言い方ではなかったかと感じられます。


U  違う価値観へと
 
  ペテロは「(迫害を)思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」(12)と続けます。この迫害に至った状況を、〈イエスさまを信じる信仰の価値観に生きるローマ人クリスチャンたちを見て、かつて放蕩仲間だった同僚たちが彼らへの憎しみを募らせて……〉と、これまでに何度か言ってきました。勿論、それもありますが、しかし、そればかりではありません。信仰の戦いという面を理解するためにも、起こるべくして起こった迫害の動機について触れたいと思います。
 
  紀元70年というと、ペテロがこの手紙を書いてから7〜8年後のことですが、その年にシリヤ駐屯のローマ軍団がエルサレムを包囲します。歴史家はこれを大反乱時代と呼びますが、ユダヤ人たちのクーデターが発端でした。徹底的な抗戦の末、餓死者まで出るという悲惨な状況の中で、遂にエルサレムは陥落、イスラエルという国は滅亡したのです。そして、イスラエルは、つい最近1948年のイスラエル共和国誕生までほとんど2000年を、世界の放浪の民となりました。そして、大反乱時代と言いましが、それに似た小反乱はここ2〜300年の間に何度も繰り返されており、少しづつエスカレートしていました。丁度、ヨハネのものを除いた新約聖書のほとんどが出来上がった時代が、このエスカレートしていった小反乱時代の最後、ペテロがこの手紙を書いているその頃だったのです。教会が非常な勢いで増えていった時代と言えましょう。当時、キリスト教はユダヤ教の一派と見られていましたから、次々とローマの町々に誕生していく教会は、当然、弾圧の格好の対象になったわけです。皇帝の命令による組織的なクリスチャン迫害は、64年のローマ大火から始まったネロのものが最初ですが、それ以前から既にクリスチャンたちの迫害に対する闘いは始まっていたと言えましょう。ペテロが「思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と言ったのは、そういった事情を指しているのです。イエスさまを信じた者たちは、ローマ人とは違う世界にいると初めから分かっていたことであり、この迫害は起こるべくして起こったのです。事情は異なるかも知れませんが、現代世界の価値観ははっきりと神さまを否定し、私たちの信仰を受け入れない方向に進んでいると感じられます。この世にあって、しかし、違う世界に生きる者として信仰の戦いがあることを覚えて頂きたいと願います。


V  信仰の戦いを戦い抜いて
 
  イエスさまを信じる信仰が、しばしば教会の雰囲気に浸るためであったり、牧師や友人と付き合うためであったり、讃美歌が好きだから、或いは礼拝に出席すると何となく気持ちがさっぱりするからといった人たちがいます。どうか、〈信仰は戦いである〉と、その戦いに心して参加して頂きたいのです。きっと、迫害の渦中にある小アジヤの教会にも、そのような人たちがいたのでしょう。迫害のことばかりが気になって、原因がローマ人との価値観の違いにあるとそこまでは辿り着いたのですが、だからローマ人と妥協しようとする信仰姿勢をと、分派に走ってしまったのです。しかし彼らは、自分たちが違う世界に招かれた者であることを忘れていました。ペテロはその信仰姿勢に一つの波紋を投げかけます。「(もし迫害のために殉教することがあっても、それは)キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」(13)。

 「キリストの苦しみにあずかれる」 私たちはこの世とは全く別の世界にいるという、ペテロの第一の主張です。キリストの苦しみとは、十字架を指しているのでしょう。十字架のイエスさまこそ、私たちの罪を贖い、私たちを神さまの御国に導き入れてくださる、私たちの信仰の原点です。〈あずかる〉とは、〈ともにする〉〈交わる〉の意味です。その信仰のために苦しむことは、十字架の苦しみとその赦し、その恵みに近づくことであると言っているのでしょう。イエスさまが私たちの苦しみを覚えてくださることを、忘れてはならないと思います。第二に、「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです」(13)と言われます。信仰の戦いのキイワードは、〈喜び〉でしょう。苦しみ中にも、イエスさまに見出された喜びが失われることなく、御国に招かれる希望を見続ける。そしてその喜びは、イエスさまの喜びでもあるのです。きっと、私たちを信仰から引き離そうとする者は、その喜びを私たちから奪い取ってしまいたいと願っているのでしょう。生きている間にか死後かは分かりませんが、栄光のイエスさまにお目にかかるのは、その信仰の戦いを戦い抜いてのことです。その時、私たちを御国に迎えてくださる、私たちのために十字架上に苦しみ抜かれたお方・イエスさまの喜びはどれほどでしょうか。

 第三に、「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら栄光の御霊、すなわち神の御霊があなたがたの上にとどまってくださるからです」(14)とあります。これは、聖霊なる神さまが私たちとともに居てくださるという宣言であり、約束でしょう。信仰の戦いは、実は神さまご自身の戦いなのです。後ろ盾になってくださる方が神さまであるなら、私たちには何の心配もいりません。神さまが私たちのことを心配してくださるのですから。「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」(ヨシュア5:14)とエリコの戦いを戦ってくださったお方が、私たちの信仰の戦いでも、先頭に立っておられるのです。16世紀の宗教改革もそうでしたが、〈みことばの剣である神さまのことば〉・聖書に真正面から取り組み、そのことばに聞いて、信仰の戦いを戦い抜いていきたいと願おうではありませんか。