ペテロの手紙 第T

主への賛美を15

Tペテロ 4:7−11
詩篇 33:1−5
T  イエスさまにお会いすることを

 今朝の箇所は、「万物の終わりが近づきました」(4:7)と始まります。先週、ペテロがこの手紙で勧めたいと願ったことの、これが中心であろうと言いましたが、ペテロはこの時、何を一番願っていたのでしょうか。それは、イエスさまにお会いしたいということでした。イエスさまと別れて30年以上世界各地を歩き回り、福音宣教のために懸命に働いてきました。共にイエスさまに仕えた仲間たちはほとんどこの世を去り、今、ローマでは、クリスチャンへの風当たりが強くなっています。ペテロは自分の殉教する日もそう遠くはないと感じていますが、それから二年経たずに始まったネロ皇帝の迫害で殉教するのです。ローマ世界でのクリスチャンを取り巻く状況は、そのように緊張に包まれていました。なかでも小アジヤの教会の人たちは、今現実に、死と向き合いながら信仰を守り通そうと闘っているのです。そのような中でペテロは、信仰者が目標とするのは終末=イエスさまにお会いする時であると、そのことを明らかにしようと願っているのでしょう。聞いていきたいと思います。

 「万物の終わりが近づきました」とあります。終末のことです。ところで、ここに語られる終末は、何か私たちの死と重なっているように感じられます。きっと、クリスチャンたちが死の危険に曝されていたから、終末と死の出来事が重なって語られたのでしょう。しかし、はっきりさせておきたいのですが、終末とは、私たちの生死に関係なくやって来る、地球規模或いは宇宙規模のまさに終末という出来事です。それがどのようなものか、いくつものことが語られており、分からない面が多すぎるのですが、聖書はそれが神さまに起因すると証言しており、もしかしたら、現代の私たちがこの目で確かめることが出来るかも知れないと、信仰の緊張を促しているのです。この終末の中心に、イエスさま再臨の約束があります。イエスさまご自身とルカの証言を聞いてみましょう。「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ24:30) 「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると見よ。白い衣を着た人がふたり彼らのそばに立っていた。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上って行かれたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります』」(使徒1:10-11)


U  イエスさまと向き合う信仰を
 
  イエスさまがもう一度おいでになる。しかし、そのことが直接語られるのは少し先になりますが、「大牧者が現われるときに、あなたがたはしぼむことのない栄光を冠を受けるのです」(5:4)と、それを目標にペテロはいくつか的を絞りながら話を進めていきます。7-11節は教会のことでしょう。
 
 「万物の終わりが近づきました」には、「ですから祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と続きがあります。この祈りは、3:7で夫たちが「あなたがたの祈りが妨げられないためです」と言われたことと同じと思われます。それは教会を担う者としての祈りでした。恐らく、続いて愛のこと、もてなしのことなどが語られるのは、迫害に直面する教会で、そういった信仰者たちの原則とされなければならない教会人としての姿勢が、かなり損なわれていたからでしょう。迫害という異常事態の中でも教会が正常に機能しているように、それがペテロの願いであったと思われます。私など、何が正常な在り方かと考えると、つい、あれもこれもと言ってしまいそうですが、ペテロは恐らく、これこそ教会の基本中の基本だというものを絞り込んでいるようです。以前から私の中に、〈教会とはどういうところか〉という問いが燻っていました。期待しながら聞いていきたいと思います。

 3つのことが語られます。第一に、個人の信仰のことです。「祈りのために心を整え身を慎みなさい」 推測ですが、ペテロはここに、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(8)と付け加えていると感じられます。心を整えることも身を慎むことも、イエスさまを信じる信仰の中で行われるべきことであって、それは、私たちの罪を赦してくださったイエスさまの十字架の愛に根ざす生き方だからです。今、教会の中に広がり始めている騒ぎが念頭にあったのかも知れません。迫害にどう対処したらいいかと懸命に自分たちの意見を主張しあっている彼らを、イエスさまの十字架の愛がどこかに忘れ去られているのではないかと、ペテロは心配しているようです。静かにイエスさまのことを思い、自分の心と向き合い、信仰を整え、互いに愛し合うことを忘れていてはいけないと、ペテロの声が聞こえてくる気がします。このように、一人一人がイエスさまと向き合う信仰を確立していくことが原則でしょう。


V  主への賛美を
 
  第二に、教会という交わりの中で忘れてはならないことですが、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」(9)と勧められています。交わりが出来てしばらくすると、互いの欠点ばかりが見えてくることがあります。気の合う者同士でも、それは避けられないでしょう。迫害という極限状態の中で肩を寄せ合っている彼らの教会生活に、そのような不平不満が吹き出していたのではないかと思われます。ぎくしゃくする教会の人たちが互いに愛し合う原点に戻るために、家族であるよりも、互いを客か旅人としてもてなし合うことが求められたのでしょう。ここには、客、または旅人を〈もてなす〉という言葉が使われています。明らかに、イエスさまを意識したもてなしが、互いの間にと勧められているのでしょう。ペテロは、イエスさまが、「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸であったとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた」(マタイ25:35-36) あなたがたも〈そのようにしなさい〉と言われたことを思い出しているのかも知れません。イエスさまを信じる信仰は、このように、互いを愛で包んでいくものではないでしょうか。

 第三のことです。教会内でのそれぞれの働きが語られます。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」(10-11) 語る、奉仕するという〈働き〉が〈仕える〉と言われていますが、最近、サラリーマン牧師という言葉があるのを思い出して、時代も変わったと悲しくなります。牧師は決して職業ではないと思います。また、クリスチャンが教会で奉仕をすることも、決して仕事と捕らえてはならないでしょう。語ることも奉仕をすることも、十分過ぎるほど自分を吟味しながら、喜んでその任に当たるようにしたいですね。それは、神さまが与えてくださった賜物を、神さまのために用いることなのですから。

 ペテロは「それはすべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」(11)と、賛美をもって言葉を閉じようとします。愛ももてなしも奉仕も、教会はこのように主への賛美に尽きるところなのでしょう。ここに、ペテロの主にお会いしたいという切なる願いが込められているのを感じます。第一にイエスさま、そして、どこまでもイエスさまなのです。私たちのありったけを込めてイエスさまを第一とし、その主に向かって心から賛美する者でありたいと願います。詩篇に「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」(33:1)とあります。〈正しい者〉とは信仰者のことです。かつて、聖歌隊で思いっきり賛美することを教えられましたが、賛美こそ私たちの信仰の原点であると覚えたいですね。