ペテロの手紙 第T

目を上げて主を14

Tペテロ 4:1−6
イザヤ 65:17−18
T 悲しむお方は?

 ここしばらくペテロの手紙を見てきましたが、彼らが直面している信仰の危機を、いくらか理解出来たのではないかと思います。ローマ人による迫害は、引き金にはなりましたが、それ自体彼らの信仰の本当の危機ではなかったようです。彼らにとって第一の危機は、ローマ人の宴会や快楽やばか騒ぎに適当に付き合って構わないとする、教会に蔓延しようとしていた、この世の価値観との妥協ということでした。一部の教師たちが迫害をどう回避したらいいかと悩み、それが妥協という路線に拍車をかけたと思われます。誤解してはならないのですが、イエスさまを信じる信仰は、あれをしてはならない、これは禁じられていると、規則で私たちを拘束するものではありません。イエスさまを信じる信仰は、すべてのものから自由にされる信仰です。イエスさまを喜ばせようとしているのか、それとも悲しませようとしているのか、その基準を私たちは自分で決定していくということを忘れてはなりません。しようとしていることが、自分の信仰の良心を侵害しはしないか、また誰かを躓かせることになりはしないか、それも判断の基準になるでしょう。そこに信仰の戦いが生じるのです。妥協ということの重大な問題は、そのような信仰の戦いを回避することにあります。そしてそれは、現代の私たちにも直結する問題であろうと思われます。

 第二に、彼らは希望を見失い始めていました。イエスさまを見つめることができなくなったということでしょう。これこそ、彼らの信仰の最大の危機でした。妥協の信仰は、そのようなところから生まれたと思われます。互いに賛同者を得ようと画策し、そこに教会分裂の芽が育ったのです。

 迫害が厳しくなってくると、他にもいろいろと問題が吹き出してきます。特に教会に多く加わっていた婦人たちの間に動揺が広がり、彼女たちは夫たちにそれを何とかして欲しいと騒ぎ立て、夫たちはそんな妻たちをうとましく感じ、愛情が失われ……、そんなバラバラでちぐはぐな信仰姿勢が膨らんで……、小アジアの教会はそのような危機に直面していたと思われます。現代の私たちの信仰にも、そういった面が強くなってはいないでしょうか。イエスさまを見つめようとせず、聖書を読まず、祈らない。そこに牧師や他のクリスチャンたちへの批判が吹き出してくるのです。いくつもの教会の分裂や争いを耳にしますが、最も悲しんでいるお方はどなたか、考えてみる必要がありそうです。


U 信仰に節制を

 繰り返しに時間を割いてしまいましたが、新しいテーマを語り始める4章に移りましょう。今朝は1-6節です。先週、3章の後半は家の教会への提言2:11-3:12に対する補足であろうと言いましたが、4章も、「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました」(1)と始まります。小アジヤの教会に起こり始めた危機は、依然ペテロの重要な関心事であったと思われます。イエスさまを信じる信仰は、倫理や道徳ではなく、私たちを一切のものから自由にするものであると何度も言ってきましたが、ここで誤解してはなりません。私たちはその自由をわがままに振る舞う奔放なものとせず、愛の働く自由、イエスさまに従う自由とするのです。パウロも言っています。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)

 私たちの信仰には、節制が伴うと承知しておきたいのです。だからペテロは「あなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになる」(2)と言い、「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝はもう十分である」(3)と戒めています。何をしても自由だと勘違いしてそのようなものに溺れていくなら、実はそのようなものの奴隷になると気づかなければならないでしょう。イエスさまを信じる信仰は、自分自身を節制する意志にまで働いてくるのです。しかし、何度も言いますが、それはあくまで自分の信仰に課すべきものであって、他人にそれを強制するなら、それは律法であり、自由な信仰とはかけ離れてしまうことを忘れないで頂きたいのです。信仰はあくまでも自分と神さまとのことであって、どんなに優れたものであっても、その人の基準が他の人の基準とはなり得ないのです。


V 目を上げて主を

 4章の、今述べてきたことが、ペテロの関心事の一つであることは間違いありませんが、ペテロの最も勧めたいことが、実はこの4章に迸り出ています。その意味で4章では、新しいテーマが語り始められます。先週も触れたことですが、ペテロがこの時一番何をしたいと願ったのか、それは、イエスさまにお会いすることでした。彼は、伝道者として世界中を回りながら30数年を働いて、既に70才を超えていたと推測されます。かつての仲間・イエスさまのまわりに一緒に集まっていた人たちはほとんど殉教し、また行方が知れません。伝説によると、トマスはインドに、ピリポはエチオピヤに行っていました。恐らく、ほとんどの仲間たちは召され、この世を去っていたでしょう。その人たちと、イエスさまのそばで再会出来るなら、どんなに素敵らしいことでしょう。既に、ローマでの礼拝や信仰者たちの集まりは、カタコンベなどで隠れるように行われていたようです。彼は自分の殉教の日が近いと承知していたのでしょう。

 ペテロの信仰の、これが中心であろうと感じられるところが、「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます」(3:22)と、3章に出てきました。4章で彼は、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(4:7)と、終末のイエスさまにお会いできる時のことを語り始めます。「地上の残された時」(2)とあり、「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません」(5)とあるのは、そのことでしょう。〈生きている人々〉とは、恐らく、小アジヤ教会の人たちと彼らを迫害しているローマ人の両方を指していると思われます。もはや、「私は主を知らない」という言い訳は通らないのです。天地万物を創造され、人の罪のために十字架におかかりになったお方は、たとえローマ人が認めなくても彼らの主であり、現代日本人を含むすべての人たちの主であって、私たちはやがて等しくその方の前に立つことになるのです。その日が近いと、覚えておかなくてはなりません。〈死んだ人々〉とは、殉教していった奴隷たちのことでしょう。現代にまで続く迫害で殉教するであろう人たちを指しているとも考えられます。彼らは主人たち・人間からの迫害を受けましたが、天国では神さまからの祝福を頂けると、6節でペテロは慰めを語っているようです。

 もし私たちが、今を超え、もう一度来られると約束されたお方を見つめていくなら、今一時の不公平も不幸も不当な扱いも、また悲しみや苦悩や混乱も、そして罪や死さえ問題ではなくなるでしょう。そして、永遠の彼方にある光栄に満ちた祝福を思うことが出来るようになるのでしょう。預言者イザヤが聞いた神さまの宣言を、私たちも聞いておきたいと思います。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものをいつまでも楽しみ喜べ」(イザヤ65:17-18) 目を上げて新しい神さまの御国を見つめ、信仰の新しい価値観に生きる者となっていきたいと願います。