ペテロの手紙 第T

希望の信仰を13

Tペテロ 3:18−22
エレミヤ 29:11−14
T 生きている者の神さまとして

 今朝は18-22節からです。少々理屈っぽい話になりますが、先週、17節の「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」には、「(なぜなら)キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」と、18節前半が続いていると見てきました。文脈としては、18節後半以降もそこにつながっていますので、恐らく18節前半は、13-17節と18-22節の両方に結びついているのでしょう。18-22節は新約聖書中最も難解な箇所の一つに数えられています。13節以降一つのテーマが語られており、18節前半を結び目に、関連のある事柄がこの難解な部分にも語られていると推測すると、いくらか見当がつくのではないでしょうか。ともあれ、ペテロが私たちに伝えたいと願ったメッセージを聞き取っていきたいと願います。

 18節後半からです。「(キリストは)肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか8人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです」(18b-20) この箇所が難解とされるのは、これが彼岸のイエスさまの行動と考えられることでしょう。〈十字架の後、イエスさまは死人のところに下って行かれ、福音を宣べ伝えられたのであろう〉という「この極めて自然な解釈を退ける理由はどこにもない」とある人たちは言います。確かにイエスさまは、「よみに下り」と私たちが使徒信条に告白する通り、〈死後の世界という彼岸〉に留まる期間を否定していません。しかし、今、ペテロは小アジヤで迫害に苦闘している教会の人たちに、「しっかりと信仰に立ちなさい」と勧めているのです。ここに、大昔のノアの時代を持ち出す必然性はどこにもないと思うのですが……。「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神である」(マタイ22:32)とイエスさまが言われているのは、ご自分とそのメッセージを指していると考えていいでしょう。福音は、現在の私たちが受け止めるべき事柄なのです。


U 十字架とよみがえりのイエスさまを

 確かに、ペテロは現在のことを語っています。そこで、キイワードを〈現在〉に絞って考えてみたいのですが、まず、18節後半です。〈肉においては死に渡され〉とは、明らかに十字架の死を意味しています。そして、〈霊においては生かされて〉ですが、これは、死後の世界で地獄からの脱出を願う人たちの手助けをしたと言うのではなく、イエスさまのよみがえりを指すと考えていいでしょう。イエスさまのよみがえりは、ペテロや弟子たちにとって、肉体の復活以上の意味を持っていました。彼らはイエスさまの十字架の後、ユダヤ人を恐れ、最後の晩餐の屋上の間に籠もり、「今後どうしたらいいのか」と相談していました。部屋は内側からしっかりと閉じられていましたが、そこによみがえりのイエスさまが現われるのです。そして、ペンテコステの日に聖霊降臨の出来事があり、その後彼らは寝食を忘れて福音の宣教に専念します。もはや、彼らは以前のユダヤ人を恐れる者たちではなく、よみがえりのイエスさまを聖なる方として崇める者たちでした。「見よ。わたしは世の終わりまでいつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)という約束を聞いたからでしょう。〈霊においては生かされて〉とは、そのような聖なるお方イエスさまを指し示し、13節に「心の中でキリストを主としてあがめなさい」とある、同じペテロの信仰の告白であると感じられます。

 すると、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに……」(19-20)とは、大昔のノアの時代のことではなく、迫害にあっている小アジヤ教会の人たちや現代の私たちのことではないかと思われます。わずか8人だけが箱舟の中に入って救われたノアの時代のように、現代ほとんどの人たちは福音に耳を貸しません。しかし、イエスさまはそんな頑固な私たちのために十字架に死なれ、しかも、よみがえられたのです。「私たちを神のみもとに導くためでした」と言われる通りに。ペテロは、福音のために世界中を歩き回った何十年もの苦労を何一つ語りません。人々を信仰に導いてくださったのは主ご自身であると、よくよく知っていたからでしょう。


V 希望の信仰を

 「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり……」(21) バプテスマとは私たちが大雑把に言う洗礼のことですが、ペテロも言う通り、これは私たちのイエスさまを信じる誓い・信仰告白でしょう。洗礼は神さまへの誠実を示す最高の機会です。もしイエスさまを信じようと決心されるなら、他のことがどうあっても(聖書を十分に読んでいない、キリスト教のことがまだ良くわかっていない等)、どうぞバプテスマを受けて頂きたい。そして、「私はイエスさまを信じました」という決心を、神さまと人の前に明らかにして頂きたいと願います。

 言い忘れましたが、ペテロがここにノアを持ち出したのは、イエスさまが言われたことを思い出していたからかも知れません。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らには分からなかったのです。人の子が来るのもその通りです」(マタイ24:37-39) ペテロが21-22節に「(バプテスマは)イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威を従えて、神の右の座におられます」と加えたのは、やがてもう一度おいでになると約束されたイエスさまを、待ちこがれていたからではないかと思うのです。

 バプテスマは確かに信仰告白でしょう。教会とはイエスさまがいらっしゃるところであり、ペテロがここで〈天の御国で神さまの右の座に着かれているイエスさま〉を描いているのは、イエスさまだけが私たちの主であり、そこにこそ本当の教会があると言いたかったのではと思うのです。小アジヤの教会は、迫害の混乱の中で、本来あるべき姿を見失いかけていたのでしょうか。現代の私たちの教会への警告と聞いていかなければと思います。彼がここでノアを持ち出してバプテスマ云々を言うのは、迫害や世間の声など周りの現象に右往左往することなく、イエスさまにお会い出来る希望をそこで(教会で)見据えなければならないと、これが彼のメッセージであると聞こえてきます。15節でペテロは「あなたがたのうちにある希望」と言いました。私の大好きな聖書の箇所ですが、エレミヤが聞いたメッセージを思い出します。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それは平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11) 私たちの信仰にはそのような希望があると心に刻みたいですね。