ペテロの手紙 第T

祝福を頂くために12

Tペテロ 3:13−18a
     イザヤ 53:10−12
T 神さまの愛情の中で

 2章11節で「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。………」と始まった、夫たち、妻たち、しもべたちといった人たちで構成される家(家の教会)へのペテロのメッセージは、詩篇34篇のことばを引用して閉じられました。神さまから祝福を頂こうとしている者たちに、詩篇はこう結んでいます。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」 ペテロの手紙を学び始めた動機は、「神があなたがたのことを心配してくださる」(T、5:7)ということでした。神さまが心配してくださるという、その奥深いところをもっと知りたいと願ったのです。その奥深いところに、神さまの目や耳があると知らされる思いがしてのことです。神さまの目や耳が私たちに傾けられている、それは私たちのことを一心に心配される神さまの深い愛情であると言えましょう。

 今朝の箇所の3:13-22ですが、これは「家」へのメッセージとしては補足です。しかしこの中には、いくつかの大切なメッセージが込められています。18-22はかなり難解なところですから来週に回し、今朝は前半の13-18aからペテロのメッセージを聞いていきたいと思います。

 「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」(3:13)と始まります。これはこの手紙の中に何回も繰り返されているテーマです。しかし、そのように志を立てながら生きたとしても、実際には迫害がそれほど簡単に止むわけではありません。恐らく、小アジヤの教会の人たちも、ペテロに言われるまでもなく、そのように信仰者の証しを立てようとしていたのではないでしょうか。けれども、迫害は次第にエスカレートし、ペテロがこの補足を書き加えなければならないほど事態が進行していたと考えられます。14節からその補足ですが、ペテロは二つのことを見ていると感じられます。一つは、彼らの忍耐が迫害者の目にどう写るかということであり、そしてもう一つは、それが神さまの目にどう写るかということです。この二つのことに注目しなければならないと感じていますが、二つは決して別々のものではないでしょう。一つづつ丁寧に見ていきたいと思います。


U みことばと取り組む

 先走って二つのことと言いましたが、ペテロは結論めいたことを16節と17節の二カ所に分けて迫害者と神さまについて言っていますので、彼が区別しているように一つづつ考えていくのがいいのではないかと思ったのです。もっとも、彼はその双方からの反応を、14節の「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」に結びつけています。これは苦しむ人への神さまからの最終的な祝福ではないかと思われます。そして、その祝福は、殉教の瀬戸際にある人たちへの、ペテロの祝福の宣言ではなかったかと感じます。その意味でこれは別々のものではないのですが……。

 第一に16節からですが、「……そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう」とあります。〈そうすれば〉とある生き方の勧めは、ここでより積極的なものになっています。「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしておきなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」(15-16)とあり、「そうすれば……」と続くのです。言葉の意味や文脈の説明をするまでもなく、彼らの訓練ぶりが伝わって来ます。恐らくペテロも、自分をそのように訓練してきたのでしょう。書店で聖書が簡単に手に入るような時代ではなく、写本を手に入れても自由に読める環境が整っていたわけでもありません。それでも彼らは、自分たちの信仰をしっかりと表明できるようにと願いながら、命がけで聖書を読んでいました。弁明とは、極めて厳密な意味で論理の組み立てに用いられる言葉であって、決して自己満足のために言葉をひねくり回していたのではありません。私たちのイエスさまを信じる信仰には、世の人が束になってかかっても、それに打ち勝つ真理と論理性が備わっています。その信仰を持って綿密に誠実に読むならば、聖書は必ず信仰の弁明を確立させてくれると約束しています。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Uテモテ3:16) と、ここに、イエスさまを信じる彼らの信仰の気迫のようなものを感じます。その姿勢を受け継いでいきたいと願います。

 余計なことかも知れませんが、今、聖書にしっかりと立った信仰を告白しようと願う人たちが少なくなったと指摘されています。厳密な聖書信仰が失われて、私たちの信仰は一体どこに行こうとしているのでしょうか。伝道者になる前のことですが、教会の青年会でギリシャ語を学び、ヨハネの福音書を一緒に読んだことを思い出します。これが私の信仰の原点です。いい加減な信仰理解でお茶を濁すことなく、これからも原点に立ち帰って聖書をしっかり読んでいきたいと願います。


V 祝福を頂くために

 もう一つのことですが、18節の前半を含む17節です。少し分かりにくいと思いますので、別の訳から引用しましょう。「実に、善いことをして苦難にあうことが神の御意であるならば、それは悪いことをして苦難を受けるよりは優っている。何故ならば、キリストは一度限り罪のために、正しい方として、不正な人々のために死なれたからである」(キリスト新聞社訳)

 この中心は〈神の御意である〉という点です。善いことを行なうことが神さまの御意だという言うのです。〈善いこと〉とは、信仰者として、反対者が恥ずかしくなるようなレベルの高い生き方を志すことであると言ってきましたが、ここでは、そのようなキリスト者の倫理ではなく、もっと信仰の本質に関わるところまで踏み込んで語られているようです。それが「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい」(14-15)という勧めになったようです。〈キリストを主としてあがめなさい〉は、別訳で〈聖ならしめよ〉(新契約聖書)となっています。私たちの罪を贖うために十字架に死んでくださったお方を、私たちの聖なるお方・神さまご自身と告白し、その告白が私たちの信仰の旗印となるのです。信じる者たちの「善いこと」とは、神さまにとっては信仰の告白に他ならないのです。恐らく迫害者は、その旗印を憎みかつ恐れ、だからこそ怒るのでしょう。もっとはっきりさせるならば、イエスさまを私たちの主であると告白していくことこそ、神さまが望んでおられる御意なのです。

 覚えて頂きたいのですが、ペテロはこの手紙の中で、迫害から逃れる生き方を教えてはいません。むしろ、クリスチャンとして受ける苦しみであるならば、それを喜んで受け入れなさいと勧めているのです。イエスさまを救い主と信じる告白は、私たちの生き方をそのようなところにまで広げていくのです。それが、「義のために苦しむことがあっても、幸いです」という祝福の宣言になっているのでしょう。このすぐあとに、ペテロが「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」と付け加えたのは、〈あなたがたはそのようなイエスさまの弟子の一人なのだ。だから主に倣いなさい〉と、これがこの迫害への最高の取り組み方だと聞こえてきます。これは現代の私たちについても同じでしょう。預言者イザヤはこう証言しています。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(53:11) これは、〈苦難のしもべ〉と呼ばれるお方・イエスさまご自身の叫びでした。満足するとありますが、信仰とは、苦しみに遭遇しても、〈私たちのことを心配してくださる〉解決のお方に目を向けながら、喜びを持ち続けることであると聞こえてきます。私たちにはそのような救い主イエスさまがおられるのですから。