ペテロの手紙 第T

祝福を受け継いで11

Tペテロ 3:7−12
詩編 34:11−22
T 夫たちよ

 先週、3:1-6から「妻たちよ」と見てきました。ペテロは相当力を込めて彼女たちが変わることを期待しています。彼女たちが、迫害下にある小アジヤの教会や〈教会=交わり〉としての最小単位である家にとって、非常に大切な存在だったからでしょう。ペテロは妻たちのことを語りながら、神さまの祝福を頂くようにと、その家・教会のことを語っているようです。

 今朝は7節からですが、まず「同じように……」と始まります。これは3:1の「妻たちよ」の前にもあり、文章のつながり具合から省かれていますが、「しもべたちよ」にもつけられる筈だったと思われます。単なる副詞で文章を整えるための言葉ですが、ペテロはそれ以上の使い方をしていると推測しました。多分、「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。……異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らは何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」(2:11)に、「同じようにしもべたちよ、妻たちよ、夫たちよ」と繋がってゆくのでしょう。イエスさまを信じる信仰は、人をその立場や身分、人種など、あらゆる違いを超えて一つにするものであると、ここで知らされる気がします。それほど、「あなたがたは神さまの前で(同じように)愛されている者だ」と宣言されている私たちです。私たちは、その祝福に招かれていることを忘れてはなりません。

 「夫たち」もその神さまの祝福に招かれているのです。短い箇所ですが、彼らが家や教会で担わなければならない非常に重要な部分を覚えて欲しいと、ペテロは願っているのでしょう。彼らは恐らく教会の役員たちでした。彼らに、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みを受け継ぐ者として尊敬しなさい」と言われます。家庭を大切にして来なかったのでは、と問われているのでしょうか。信仰の場所として、家庭はある意味で教会より大切なところだと、夫たちは覚える必要があったのでしょう。これは夫の妻に対する愛情の問題のような気がします。「尊敬しなさい」と言われますが、尊敬は愛情に伴うものでしょう。恐らく、妻たちはヒステリックになっていたと思われますが、そんな彼女たちの様子の大部分は、夫たちに責任のあることです。夫に愛されるなら、きっと妻たちは穏やかになるでしょう。そして、祈りが勧められます。「それは、あなたがたの祈りがさまたげられないためです」 夫たちの役割は、家においても教会においても、神さまに祈り、人を愛することでした。困難は、彼らの祈りと愛によって切り抜けていくことが出来ると、これがペテロの指摘であろうと思われます。


U 祝福を見つめて

 今、ペテロは家のことを語っています。当時、教会は現在のように固有の会堂を持っていたわけではありませんので、大きな家がそのまま教会として使用されていました。恐らく一つの教会が、いくつかの家の集まりからなっていたのでしょう。決して別々のものではありません。ペテロが家と教会を一緒に語っているのは、その意味においてでした。恐らくペテロは、神さまのものである一つの家族のことを意識しています。そこには何人かの主人、しもべ、妻たちがいます。そして、それぞれの立場は異なりますが、同じイエスさまを信じる信仰、一つの教会に入れられているという共通の意識によって結ばれています。その人たちに是非とも覚えて欲しいことがありました。

 「最後に申します」とペテロは注意をうながします。「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」(8-9) これは、今までペテロが勧めてきた信仰者らしい生き方をということなのでしょう。先程も言いましたが、「愛する者たちよ。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らはあなたがたのりっぱな行ないを見て、神をほめたたえるようになります」(2:11)という生き方です。その最初を繰り返して、ペテロはこの項を閉じたいと思ったのかも知れません。ただ彼はこう付け加えます。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」と。家・教会を支配するものは愛でしょう。互いに尊敬し合い、あわれみ深く、祝福が満ちているところ、現実には、それは私たちの家にも教会にも存在しないかも知れません。しかし、やがて私たちが招かれて行く神さまの家・天国という神さまの国(それこそ真の教会でしょう)には、その祝福が満ち溢れているのです。そのようなところに招かれている幸いを忘れてはなりません。信仰とは、そのところを見つめ続けていくことであると思います。


V 祝福を受け継いで

 10-12節でペテロは、詩篇34篇から引用しています。13節以降にまだことばを続けますが、恐らく、3章の終わりまでは、まだ言い足りない気持ちからの補足でしょう。補足とは言っても、いくつかの大切なメッセージが込められており、そして4章からの新しい事柄に移っていくのです。そのように考えますと、この詩篇34篇からの引用は、主人たち、しもべたち、妻たちへの勧めの締めくくりなのでしょう。この部分に込められたペテロの気持ちを聞いてみたいと思います。

 何故ペテロが、彼らへの勧めをこの詩篇の引用で締めくくろうとしたのか、二つの理由を考えてみたいと思います。一つは、ペテロのメッセージが、この詩篇に明確に語られているからでしょう。そしてもう一つは、信仰者たちが聞く第一のことばは神さまからのものでなければならないと、ペテロが考えたということでしょう。当時、聖書は39巻の旧約聖書であって、これは当然神さまのことばであると受け止められていました。新約聖書はまだ完成されてはおらず、いくつかの福音書やパウロの手紙などは出回っていましたが、神さまのことば・聖書としては、まだ十分に認知されていなかったのでしょう。ここに旧約聖書を引き出すことで、ペテロの「信仰者たる者、すべからく神のことばに聞くべし」と、言外に彼の信仰が伝わって来ます。私たちの聖書信仰にも、鋭く問いかけてくるものでしょう。

 さて、ペテロのメッセージがこの詩篇の中に明確に語られているということですが、まず彼は、神さまの祝福に招かれている者たちのことを、「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者」と宣言しています。〈思う〉とは〈意志する〉という言葉であって、信仰が私たちの気分的なものではないことをはっきりさせているようです。〈いのち〉とは、迫害に直面している人たちにとって、如何にも象徴的な言葉ですね。現実に殉教する人たちが出ているのですから、この〈いのち〉は神さまの永遠の住まいに招かれ、祝福を頂くことと考えて差し支えないでしょう。使徒ヨハネはこれを明確に、「イエスさまを信じる者たちが頂く永遠のいのち」(ヨハネによる福音書 3:16)と表現しています。ところが、私たちが生きているこの現実の世界には、いじめや争いや偽りや妬みがあり、欲望や高慢や自己主張が絶えません。まさに罪が渦巻く世界です。そのようなところで、〈幸いな日々を過ごす〉ことが出来ないのは明らかです。幸いな日々は、最終的には神さまの御国においてなのです。イエスさまを信じる私たちが自らの意志で志すことは、日常の信仰生活に、「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求める」こと以外にありません。そんな私たちを神さまは祝福してくださるのです。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」とあります。まさに祝福の宣言です。救い主が見ていてくださり、聞いていてくださるなら、私たちはどんな困難に直面しても、切り抜けていくことが出来ます。イエスさまの十字架という神さまからの祝福を受け継いで、その祝福を他の人たちにもと願う者でありたいと思います。