ペテロの手紙 第T

神さまの祝福の中に10

Tペテロ 3:1−6
創世記  17:15−16
T たましいの牧者のもとに

 2:11にこうありました。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」 今、私たちは、ローマ人による迫害という事態にある小アジヤ教会の人たちへのペテロの勧めを聞いているのですが、第一の勧めは、イエスさまを信じて教会に行くようになったローマ人に対し、イエスさまを信じなかったときの異邦人のままの状態に戻ることがないよう、〈たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい〉というものでした。恐らく、彼の妻や家族、家のしもべたちも教会に加わっており、その人たちの誘いもあって、教会には、ローマ人の主人が来ていないにもかかわらず、他の家の〈しもべたち(奴隷)〉もイエスさまを信じて教会に集るケースが多かったのではないかと推測されます。その奴隷たちが、教会に来ているということで、主人から迫害を受け、拷問などで既にいのちを落とした人もいたのでしょう。彼らへの励ましのために、ペテロは力を込めてこの書簡の中心とも言えるイエスさまの十字架に触れています。先週、そのイエスさまのことを取り上げました。イエスさまのことはまだまだたくさんありますが、それは私たちの信仰の中で繰り返し聞いていきたいですね。

 先週はイエスさまのことで手一杯で、ペテロがしもべたちに聞いてもらいたいと願った慰めにまで行くことができませんでしたので、今朝はまずそこから聞いていきたいと思います。2:25に「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」とあります。彼らの主人は冷酷で横暴でした。恐らく彼らにとって主人はとてつもなく大きな存在でしたから、教会に来ているしもべたちは、隠れるように密かにイエスさまを信じていたのでしょう。ところがペテロは、イエスさまが〈あなたがたのたましいの牧者であり監督者である〉と言います。牧者も監督者もローマの皇帝につけられた呼称のようですが、階級という点では、退役軍人だったであろう彼らの主人より、ずっとずっと上の存在でした。しもべたちは無学でしたが、皇帝が主人たちよりもずっと上の存在であることは知っていたでしょう。しかし、更に、〈たましいの牧者、監督者〉である方は、その皇帝とは比べものにならないほど上位におられ、私たちの信頼を決して裏切ることがないのです。そのようなお方の保護のもとに帰ったのですから、そのお方からの慰めを受けるよう、そして平安でいるようにと、ペテロは聞いて欲しかったのでしょう。


U 妻たちよ

 主人たちへ、次に、しもべたちへとペテロの勧めを聞いてきました。3番目に取り上げられるのは「妻たちよ」です。「自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」(3:1)とあります。

 この妻たちは、クリスチャンではないローマ人を夫に持っている人たちのことでしょう。もしかしたら、その夫たちの幾人かは今回の迫害の主人公かも知れません。その意味でこの妻たちは、迫害されているしもべたちと同じように、どのようにして信仰を守り通したらいいのかという問題を抱えていたと言えます。ただし、彼女たちが直接迫害されていたのではなく、問題は、彼女たちがローマの女性としてのかつての風習を引きずっていたことにあるようです。「髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的な……」(3)とは、まさにローマの上流階級の女性たちがしてきたことでした。それは、彼女たちが依然として夫の価値観の中に生きていることを示しており、彼女たちのそのような生き方は、迫害下にある教会に、ローマ人たちとの妥協という問題を提供していたのではないでしょうか。ペテロが、彼女たちに「無言のふるまいによって、神のものとされるためです」と勧めているのは、信仰者としてより原則的なところに立つように望んだからではないかと思われます。きっと、彼女たちは「無言」ではなかったのでしょうね。

 8節に「あなたがたの祈りが妨げられないためです」とありますが、そのような妻たちが、家の中で泣いたりわめいたりと、夫が辟易するくらいヒステリックになっていたことが暗示されています。迫害という異常事態の時だけでなく、妻たちが賢くなることでいろいろな問題が解決していくだろうことは、現代も同じであると覚えて頂きたいのです。恐らく、私が男性なのでそう感じるのかも知れませんが、女性が夫の価値観を越えることで、その家庭がすばらしいものになっていくのではないかと思われます。教会に来ている人たちの中に、家庭婦人が一番多いと言われます。その妻たち母たちの祈りが、夫を子どもたちをイエスさまを信じる信仰に導いていく大きな力となっていくのでしょう。敵対するローマ人がイエスさまを信じるなら、小アジヤ教会の異常事態は根本から解決するのです。それが恐らく、1節にある「自分の夫に従いなさい」と妻たちに言われた内容ではないかと思うのです。


V 神さまの祝福の中に

 ペテロは彼女たちにこう勧めます。「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(3:4) 誤解しないで頂きたいのですが、女性だから特別に柔和で穏やかな内面、無言の中にある信仰の人柄を飾りとしなさいということではありません。女性も男性も等しくそのようでありたいと願います。

 そのような信仰の飾りを身につけていくことは、証しとしても非常に大切なことでしょう。この手紙でペテロが勧めていることは、いつ、どのような時にも、イエスさまを信じる信仰者にふさわしく立っていなさいということでした。一つのことを覚えて欲しいのですが、イエスさまのことを証ししなさい、伝道しなさいと勧められると、知っている知識を動員させて一生懸命にイエスさまのことを話し、説得することだと錯覚しています。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とは、言葉による証しだと勘違いしているところがあるようです。しかし、おしゃべりすることが証しではないし、イエスさまに関する知識をひけらかすことが伝道ではなく、まして、「私はこう思う」と自分の経験や意見を本物の信仰だと押しつけることは、断じてクリスチャンの証しではありません。信仰の証しとは、もっともっと自分の内面で格闘しつつ培われたものから出て来なければならないと思うのですが、ここでペテロが勧めているのはそのことでしょう。

 「むかし、神に望みを置いた婦人たちも、このように自分を飾って夫に従ったのです。たとえばサラも……」(3:5-6)とあります。サラというのは創世記に出て来るイスラエル最初の族長アブラハムの妻のことですが、創世記を読んだ限りでは、彼女がそのように誉められる女性だったかと、少々疑問に思うところもないわけではありません。むしろ、嬶天下に近い女性だったような気もします。「あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子どもになるのです」(6) そんなサラの子どもにと言われてもあまり嬉しくないと感じるほどです。しかし、聞いて頂きたいのですが、そのサラのことで、神さまがアブラハムに言われたことばがあります。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが彼女から出て来る」(創世記17:16) 神さまからの祝福を頂くことで、私たちは内面を柔和で穏やかに、しかも救い主の光を輝かすことが出来るのです。サラとは、そういうことなのです。

 その神さまの祝福を頂くために、この手紙の妻たちをもう一度眺めてみたいのですが、すると、彼女たちの自己主張のかたまりが、実は私たちに重なってくるではありませんか。自己主張ではなく、「神を恐れかしこむ清い生き方」(3:2)を志すことこそ、神さまの祝福を頂く道だと、心から聞いていきたいと願います。