ルカによる福音書

99 どちら側を?

ルカ 23:26−43
ホセア  10:126
T 日々十字架を負いつつ

 ローマ総督によるイエスさまの裁判が終わりました。「ピラトは彼らの要求どおりにすることを宣告した」(25)とあります。死刑の判決でした。ピラトが「イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」(25)のは、ローマ法による十字架刑の即時執行のための処置に他なりません。

 ピラトの官邸から刑場(ゴルゴタ)まで、処刑される者は、自分がつけられる筈の十字架をかついで行かなければなりませんでした。その道々はゆるい上り坂になっていて、太い柱を組み合わせた十字架は重く、ルカは何も触れていませんが、さんざんむち打たれたイエスさまには、耐えきれなかったのでしょうか。イエスさまの十字架の道行きは、「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた」(26)と、マタイ、マルコ、ルカ3つの福音書いづれもが取り上げた記事から始まります。クレネとはアフリカの地中海沿岸にあるギリシャの植民都市で、そこにはユダヤ人会堂があり、ユダヤ教への改宗者も多かったようです。その一人だったのでしょうか。それとも、シモンというのはユダヤ人のありふれた名前ですので、彼は、クレネから戻って来たディアスポラ(海外移住)のユダヤ人だったのかも知れません。「いなか」とは、「畑」とも訳されることばですから、野良仕事から戻ったところでこの出来事に遭遇した、とも考えられるでしょう。いづれにしても、2人の息子とともに、彼の名前は教会に記録されました。イエスさまを信じる者になったと見ていいのではないでしょうか。十字架を背負ってイエスさまのあとについて行った。それは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(9:23)というイエスさまのことばが、そのまま彼の内面に起こったのではと思わされます。

 十字架を巡る今朝のテキスト(23:26-43)には、イエスさまを中心に、相対する2種類の人たちが描かれています。クレネ人シモンはその一方の旗頭、いや、イエスさまに属する人がもう一人いました。この記事を締めくくる二人の犯罪者のうちの一人です。彼についてはあとで取り上げますが、二人とも十字架のイエスさまを受け入れ、そして、彼らはまた、イエスさまに受け入れられました。


U 「時」の始まりの中で

 しかし、一方に、そうではない者たちがひしめいています。十字架を背負って進んでいくイエスさまを見物する者たち、刑執行に当たるローマの兵士たち、イエスさまを告発した原告団、そして民衆。ルカはそのほとんどを、「彼ら」とだけ記します。この記事の中心部を彼らの生々しい姿で満たしながら、十字架はイエスさまのメシアたることを断固否定する、彼らの強い思いで執行されたのだと告発しているようです。しかし実は、否定された筈のイエスさまが彼らの真ん中におられるのだと、ルカのメッセージが聞こえて来ます。恐らく、ルカが意識して描いたであろうその構図を念頭に置きながら、見ていきたいと思います。

 まず、「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った」(27)という記事からです。当時、死刑囚が処刑される時、たくさんの人が嘆きながらその後についていく、そんな習慣がありました。「嘆き悲しむ女たち」とは、きっと、葬儀の時に、「泣き女」と呼ばれる人たちがいたことに類する習慣だったのでしょう。そんな者たちを先頭に、ぞろぞろとついて来る大勢の民衆。狭く上り下りの多い旧市内の道々を、ローマの兵士たちに囲まれながら、まるで戦いに勝利した凱旋の王のように、ゆったりと歩いておられたイエスさまが、彼らに言われました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって『われわれをおおってくれ』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょう」(28-31) これは、ホセアの預言(10:8)を引用しながら、神さまの最終的な「時」が始まることを宣言されたのだと聞いていいでしょう。義人イエスさまにさえ十字架があるのなら、神さまを拒む者たちはどうなるのかと、これは、イエスさまからの悔い改めの呼びかけでした。イエスさまが十字架にかかることで、福音の最終段階、信じない者は罪に定められるという、「時」が始まったのです。

 しかし彼らは、自分のことばかりに夢中で、その「時」の始まったことが分かりませんでした。くじを引いてイエスさまの着物を分け合い(34)、「神のキリストなら、自分を救え。(そうすれば信じてやる)」(35-39)とあざ笑い、メシア(キリスト)のことも、神さまのことも、救いのことも、どうでも良かったのです。ただ束の間の安心さえあればいいと、それはまさに現代そのものでした。しかし、もし彼らが耳を澄ませたなら、イエスさまが祈っておらる声が聞こえたのではないでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(33) 彼らが居なければならないその真ん中に、イエスさまがおられたのです。時の中心なるお方として。


V どちら側を?

 ルカは今、これまでにもたびたび中心主題にしてきた「時の中心」ということに、いくつかの意味を込めながら、より具体的に触れようとしています。まず第一は、当時のギリシャ人やローマ人社会、現代までをも視野に入れながら、神さまを見失った者たちの世界で、「彼ら」(ルカがこう言うのはその意味においてではないでしょうか)はそのことに気づかない、いや気づこうとしないで、「神さまは死んだ」などとうそぶいている。しかし、それでもなお、「イエスさまは、あなたが生きている世界の中心にいらっしゃる」と主張しているのです。「イエスさまは、私たちのいのちの中心」と言い換えてもいいでしょう。彼らに悔い改めを求め、彼らのために執り成しの祈りをしておられるのは、そのためです。彼らの魂に、イエスさまは、創造者として責任を感じていらっしゃると言ったらいいでしょうか。滅び行く魂に、痛みと悲しみを覚えていらっしゃるのです。イエスさまが十字架にかかられたのは、私たちが、そのいのちを滅びにゆだねないで、神さまのもとに立ち返っていくためでした。パウロが、「今は恵みの時、今は救いの日です」(Uコリント6:2)と言ったそのメッセージを、弟子ルカは踏襲しているのでしょう。聞いていきたいと願います。

 ルカが、クレネ人シモンを最初に、十字架上で悔い改めた犯罪人を最後に、その間に「彼ら」を包み込むという緻密な構図を描いた第二の理由は、時の中心たるイエスさまは「時の支配者」でもある、という意識に裏打ちされているのでしょう。時の中心とは、その意味においてなのです。その構図は、イエスさまを真ん中に、二人の犯罪者が一人は右に、一人は左につけられた(33)ところにも象徴されているようです。この犯罪者たちは、典型的な熱心党のメンバーでした。第一の彼は、十字架上に死のうとする、自分とイスラエルの自由と栄光という「戦友」を救わないメシアを、断固認めずにののしり続けます。しかし、その現実的政治的メシア主義を放棄し、同僚をたしなめつつ、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(42)と願った第二の犯罪者に、「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(43)と言われたイエスさまは、第一の犯罪者を責めるようなことは何一つ言っておられません。ぎりぎりの時まで待っておられたのでしょうか。しかしそんなお方だからこそ、あちら側とこちら側を峻厳と分けられるのです。そのお姿は、私たちの生と死のすべてを司る、究極の王としてのものでした。そのお方の前で、私たちはどちら側を選ぶのか、と問われていることを覚えたいのです。