ルカによる福音書

98 罪なきお方が

ルカ 23:1−25
イザヤ 53:4−6
T ピラトの登場

 サンヒドリン議会は、イエスさまを有罪(死刑)としましたが、執行する権限はありません。「そこで全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」(1) と、ローマ総督にその刑を執行させようとしたのです。彼らはピラトが有罪判決を下すようにと訴えます。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」(2)

 彼らのこの訴えには、イエスさまに対して、納税反対者という罪とともに、イエスさまが「然り」とお答えになったメシアが、ローマ人向けに「王」として強調されています。それはまさに、ローマへの反抗を目指す政治的メシアであり、ローマへの納税を拒否し、反ローマ運動をユダヤ社会に繰り広げ、と多くの自称メシアが辿った、当時の状況を背景にしてのことでした。ですから、ローマとしては、イエスさまが「メシアである」と言われたことが証拠立てられたなら、それだけで十分断罪出来るのです。彼らがピラトに期待したのは、その一点に集中していました。しかしピラトは、その点に疑問を持ったのでしょうか。「あなたはユダヤ人の王ですか」(3)と、いかにも嘲笑的な質問をしています。イエスさまのお答えは、前回(22:70)と同じでした。「それは、あなたが言っていることです」(3、新共同訳) これはイエスさまの「然り」なのですが、ピラトは「人々が勝手にそう言っているだけ」と、字義通りに受け取ったのでしょう。「この人には何の罪も見つからない」(4)と、まだ裁判の席に着いてもいないのに、断定します。それは、イエスさまについての訴えには根拠がないという総督としての見解でしたが、同時に、ユダヤ人同士のそれも宗教的な争いには巻き込まれたくないというのが、どうも彼の本音だったようです。しかし、彼らはなおまくし立てます。「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」(5) ローマの総督を動かすには、「暴動が起こる」と脅かすのが最も有効だと、小賢しい知恵を絞っての訴えです。ガリラヤは、ローマを徹底的に排除しようと画策する、熱心党の根拠地でした。イエスさまもその一派だと訴えたのです。


U 十字架の主体は

 しかしピラトは、イエスさまがガリラヤ出身なのかどうか、確かめようとします。もしガリラヤ人なら、この面倒な仕事を、領主ヘロデに押しつけることが出来ると考えたのでしょうか。過越の祭りのためエルサレムに滞在していたヘロデのところに、イエスさまを送りつけました。

 「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇跡を見たいと考えていたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにはならなかった。祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり、嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」(8-11) ルカは、ヘロデがバプテスマのヨハネを処刑して間もなく、イエスさまのうわさを聞き、ヨハネがよみがえったなどと言う者たちがいたため興味を持ち、一度会いたいと思っていた(9:9)と、この記事の伏線を記しています。きっとその質問も、いかにも興味本意のものだったのでしょう。それはともかく、祭司長たちは、イエスさまを処刑してしまえばいいわけですから、ヘロデにその可能性を求め、「激しく」訴えました。彼の残忍さを考えますと、ヨハネの首を切った勢いで、イエスさまをも……となりそうです。ところが、ヘロデはピラトの意図など汲もうともせず、ローマ総督が自分に気を遣ってくれたとばかりに、イエスさまをさんざん弄んだあげく、ピラトに送り返します。「はでな衣」とは王衣を指していますが、ピラトが「あなたはユダヤ人の王か」と問いかけたことを受けて、イエスさまに欠けているのは王衣だけであるとでも言いたげです。駄洒落としか言いようがありません。

 ルカがこの記事をここに挿入したのは、「この日、ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは互いに敵視していたのである」(12)という、十字架を巡る人間の不誠実さに触れておきたいと思ったこと、それは恐らく、ヨハネが「ご自分がどのような死に方をされるのかを示されたイエスのことばが成就するためであった」(18:32)と言うように、人間がいかに画策しようとも、十字架の死の主体は神さまであり、イエスさまご自身なのだと、そのことを明らかにするためだったと思われます。


V 罪なきお方が

 「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。『あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデも同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します』」(13-16) サンヒドリン議員など原告団が呼び出されていますので、これは正式裁判でした。指導者たちというのは曖昧な言い方で、恐らく、各界の指導者を指していると思われます。そして、そこに民衆をも並べることで、ルカは、イエスさまの死の責任が、すべてのユダヤ人にあると告発しているのでしょう。彼らに向かってピラトは、改めてイエスさまの無罪を主張しました。実は、ピラトがイエスさまの無罪を4度も主張しているのは、ルカだけです。マタイ、マルコは3度イエスさまの釈放を、ヨハネは無罪を2度ですから、どちらかと言えばヨハネの記事に近いのですが、扱い方が違っています。ルカはここで、独自の特別資料を用いているようです。それはヘロデの記事に始まるのですが、そこには弟子の影は見えておらず、この資料の報告者の可能性として、ペテロに耳を切り落とされた、大祭司のしもべ・マルコスが想像されます。彼の名が教会に知られていたのは、後に彼が弟子の群れに加わったからではないでしょうか。彼は大祭司のしもべでしたから、これらの経緯を目撃する機会があったのではと思われます。先に、イエスさまを悪人と聞いて、ゲッセマネの園で誰よりも勇敢に「敵」に立ち向かい、しかし、切られた耳をイエスさまに直して頂いて……、「イエスさまに罪はない」と言う主張は、彼のメッセージでもあると思うのです。ルカは、その特別資料に自分のメッセージを重ね、この記事にまとめました。

 ピラトは総督としてのメンツにかけ、「罪は認められない」と意固地になっているようですが、それでも「懲らしめたうえで、釈放する」など、ユダヤ人との妥協を模索し、ついに彼らの圧力に負けてしまいます。17節「さて、ピラトは祭りのときにひとりを彼らのために釈放してやらなければならなかった」(欄外注)は本文から欠落していますが、それは以下の記事を理解するための後世の加筆と考えていいでしょう。ピラトの提案を聞いて原告団は、「この人を除け。バラバを釈放しろ」(18)と叫びます。バラバ(バル・アッバ=アッバの息子)は恐らく生粋の熱心党員でした。熱心党はローマへの反抗のためには、強盗も殺人も厭わなかったのです。マタイ27:16の古い写本によれば、彼の呼び名はイエスでした。それが原典から削除されたのは、その名が「イエス」だったからでしょう。十字架につけられる筈のイエス・バラバが赦され、釈放されるべきイエスさまが十字架に。イエスさまは、バラバの身代わりでした。それは、私たちとイエスさまの出来事を象徴しているではありませんか。ピラトもサンヒドリン議員たちも、十字架の救いを計画された神さまの手の中で、ただただ走り回った道化者にすぎません。しかしルカは、「ついにその声が勝った」(23)と、人間どもの傲慢さを断罪します。ユダヤ人がピラトに勝ったという、単純なことではありません。神さまなしとする者たちの声ばかりが聞こえて来る時代がやって来ると、ルカは、現代の私たちにまで警告しているのです。イエスさまの十字架は、何としても実現されなければならなかったのです。そんな私たち人間を救おうと願われて!