ルカによる福音書

97 十字架を見つめる目は

ルカ 22:54−71
イザヤ  55:6−8
T ついて行った者は?

 「彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た」(54) ゲッセマネの園で、彼らは、夜陰にまぎれ、民家のほとんどないところでしたから、民衆に気づかれることなく、ついにイエスさまを逮捕しました。ヨハネによりますと(18:3)、祭司長たちはイエスさま逮捕に、ローマ軍の一隊とサンヒドリン付きの守衛など、役人を差し向けています。一隊は千人隊長が指揮する600人ほどの部隊ですから、ものものしい陣を組んでイエスさま逮捕に向かったわけです。暴動が起こることを警戒したのでしょうか。しかし、それほどの陣立てをして臨んだ逮捕劇は、あっけなく片づきました。イエスさまも弟子たちも、何の抵抗も示さなかったからです。ただ、ペテロが剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落としましたが、イエスさまがすぐに直されたからでしょうか、証拠として採用されてはいません。彼らはイエスさまを、「大祭司の家」に連れて行きました。これは、前大祭司アンナスの私邸だったようです(同18:13)。彼は引退後、後継者に娘婿カヤパを指定し、以後次々5人の息子を大祭司につけ、院政を敷いた人物として知られています。彼がイエスさま逮捕劇の黒幕だったようです。そのアンナスのもとで、予審とでもいった簡易裁判が行われました。その後、イエスさまは大祭司カヤパのところ、つまりサンヒドリン議会による審判の席に送られます。

 イエスさまの逮捕と裁判の経緯などは、今述べた以上にいろいろな要素があるのですが、ルカはそのほとんどを削除し、「彼らはイエスを捕え、大祭司の家に……」としか記しません。まるで、「ペテロは、遠く離れてついて行った」(54)と、ただそのことを言うために、大祭司云々という一文を入れたかのように見受けられます。きっと、彼らの行動については、53節でイエスさまが「今はあなたがたの時、暗やみの力です」と言われた、それだけで十分であるとしたのでしょう。ルカの第一の関心は、「暗やみの力」がどうしたかではなく、弟子たちの動向にあったようです。彼が伝えようと願ったメッセージは何か、その辺りのことも含め、探ってみたいと思います。


U 主のまなざしに

 「彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいました』 ところがペテロはそれをうち消して、『いいえ、私はあの人を知りません』と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、『あなたも彼らの仲間だ』と言った。しかしペテロは、『いや、違います』と言った。それから1時間ほどたつと、また別の男が、確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから』と言い張った。しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、3度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた」(55-62) 「火あかり」とは、ヨハネによりますと、「炭火」(18:18)のことですので、焚き火のように、回りを明るくするような効果は期待できません。互いの顔さえ識別しにくい暗さの中で、見知らぬペテロだけが目立ったため、当てずっぽうに「イエスさまの仲間だろう」と言ったのです。仲間だとしたらどうするのか、そんな計画性はここからは何も感じられません。最初に問いかけた女中は「門番のはしため」(ヨハネ18:17)でした。きっと彼女は、ヨハネの紹介で邸内に入った(同18:15)ペテロを、ヨハネの仲間(連れ)として覚えていたのでしょうが、二番目、三番目の質問者は、男か女かすらはっきりしていません。これは、ヨハネとペテロ自身のメモをもとにの記録と思われますが、そのヨハネですら、詳しくは取り上げていないのです。

 にもかかわらず、ルカはこれを、イエスさま逮捕後の最初の記事として大きく取り上げました。それはおそらく、ペテロ自身の証言であろう、二つのことを記したいためではなかったかと思われます。一つは「主が振り向いてペテロを見つめられた」ということ、もう一つは「彼は、外に出て、激しく泣いた」ということです。ペテロが泣いた記事は他の福音書も共通ですが、「主が振り向いた」とはルカだけの証言であって、ペテロがイエスさまの瞳に何を感じたのか、そこまでは触れていませんが、そこに、「あなたを愛しているよ」という、いつも通りの主の優しさを感じます。使徒行伝でパウロとともに弟子団の主役となったペテロは、ここから誕生したのではないかと想像します。


V 十字架を見つめる目は

 「暗やみの力」が続いています。「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、『言い当ててみろ。今たたいたのはだれか』と聞いたりした。また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた」(63-65) この記事はアンナスのところで、カヤパのところで、また、ヘロデ・アンティパスやピラトのところでと、たらい回しにされた先々で受けた侮辱をまとめたものでしょう。他の福音書のように詳しくはありませんが、ルカは一つの方向を向くことで、この記事をまとめているようです。暗やみの力の行き着く先は……、という方向です。「夜が明けると、民の長老、それに祭司長、律法学者たちが集まった。彼らはイエスを議会に連れ出した」(66) 顔触れを見ますと、このサンヒドリン(議会の意。しかし日本語では固有名詞のように扱われている)議会は、総員71人からなる大法廷でした。被告の生死に関わる裁判は、大法廷でなくてはなりません。つまり、イエスさまの死刑は彼らの間ですでに決定していましたが、大法廷でその形式を整えたということです。「夜明け(日中)」も、律法による死刑判決の規定でした。ルカは、そういった意味で、このサンヒドリン大法廷を、暗やみの力が働くところと見ているのです。

 通常は、証拠申請がなされ、証人が喚問されて審理が行われるのですが、ルカはその過程を全部省いて、イエスさま逮捕と裁判の中心容疑だけを取り扱おうとしています。「あなたがキリストならそうだと言いなさい」(67)「ではあなたは神の子ですか」(70)という二つのところです。当時、メシアを名乗る多くの者たちは、律法的にも社会的にも容認されていました。ところがイエスさまだけは、徹底的に否定されているのです。神さまが否定されたと聞いていいでしょう。「今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」(69)とは、詩篇110:1とダニエル7:13-14を結びつけて言われたもののようですが、神さまの権威を帯びるメシア預言として知られたところです。イエスさまがそのことに言及されたのは、神さまを見失ったユダヤ人社会に、イエスさまが神さまご自身として審判を行なうという宣言でした。「ではあなたは、神の子ですか」「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」(70-71) 彼らは、まるで鬼の首でも取ったかのように、イエスさまを追い詰めて行きます。実は、彼らには、イエスさまを裁く権限などないと言われているのですが……。ルカは、すでに当時の教会が、同じような人間中心の価値基準に陥りかけていることを、憂えたのでしょうか。それこそ「暗やみの力」なのだと、ルカの声が聞こえてきます。ところで「神の大能の右の座に……」とは、具体的に何を示しているのでしょうか。勿論それは、イエスさまの全ご人格を言っているのでしょうが、今まさに、裁く者たちや弟子たちの前でイエスさまが受容されようとしている、十字架のことではないかと思うのです。ルカの関心は、弟子たちの動向でした。弟子たちを見るイエスさまの目に、教会の人たちを見るルカの目が重ね合わされているようです。私たちのイエスさま(十字架)を見つめる目は、何よりも信仰の目でなければならないと、これがルカのメッセージなのです。暗やみの力が跋扈する中で、ペテロの記事を第一に取り上げたのも、私たちへの配慮と聞こえるではありませんか。