ルカによる福音書

96 祈り、そして御力を

ルカ  22:39−53
イザヤ 53:10−12
T イエスさまとともに


 最後の晩餐の席でイエスさまがペテロに、「きょう鶏が鳴くまでに、3度わたしを……」(36)と言われていますので、日付が変わっているのでしょう。過越の祭り当日(金曜日)になっていました。もっとも、日没から次の日になるユダヤ人の時間感覚で言われているのでしょうから、正確な時間は分かりませんが。「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った」(39) そこはゲッセマネの園(マタイ26:36)、狭いエルサレム市内には場所がないので、金持ちが城壁の外に造っていた庭園の一つだったようです。旧市内東側にある羊門を出て左に折れますと、ケデロンの谷に向かってゆるい下り坂になっていますが、少し下って旧エリコ街道をほんの少しオリーブ山へ登りますと、道沿いにその庭園があります。そこはイエスさまの祈りの場所でした。

 「いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい。』と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまづいて、こう祈られた。『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(40-44) これは弟子たちの証言なのでしょう。マタイによりますと、園の入り口付近に弟子たちを待機させ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れてイエスさまは、庭の奥まったところに入って行かれようです。彼らは、イエスさまのお祈りの様子をすぐ近くで見ていましたから、そのお苦しみが手に取るように伝わって来たのでしょう。「彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた」(46)と、ルカは記しています。イエスさまから「誘惑に陥らないように祈っていなさい」〔46節にも。マタイには「わたしといっしょに目をさまして祈っていなさい」(26:38,40)〕と言われ、しかし彼らは、言われたその意味が分かっていませんでした。ルカがその祈りの勧めをマタイほど詳しく記さなかったのも、恐らく、そのためと思われます。ルカは、その意味をここで触れようとはしていませんが、その祈りは、これから始まる働きへの準備と考えることが出来るのではないでしょうか。ルカは、これは教会が受け継がなければならないことだと受け止めて、使徒行伝にこの続きをゆだねました。ですから、居合わせた弟子たちみんながその祈りの勧めを聞いた、としたのでしょう。これから始まる弟子たちの働きは、祈りなしには出来ないことでした。イエスさまといっしょに目をさまし、イエスさまの祈りを自分の祈りとすることで、弟子たちは、イエスさまの代理人として立っていくことが出来るのです。


U 愛を共有することを

 ルカは、弟子たちのその祈りに連動するように、三度あったイエスさまの祈りを、心を込めて一回だけ記しました。そうすることで、イエスさまの祈りを、緊張のうちに受け止めて欲しいと願ったのでしょう。緊張の糸がゆるんで眠り込んでしまった、弟子たちに重ね合わせているようです。

 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」 「この杯」とは十字架を指しますが、〈十字架を選ぶのか、回避するのか〉と、岐路に立たれたイエスさまが浮かんできます。そんな岐路に立たれたことは、これまでにも何回もありました。ヨハネから洗礼を受けられた時、荒野でサタンの誘惑に会われた時、山上の変貌の時にも、それほどイエスさまの十字架は、辛く苦しい道だったと言えるのではないでしょうか。それは、父なる神さまから、「罪ある者」として捨てられることを意味していました。それがどんなに悲しいことであるか、想像するに余りありますが、いづれの時にも、イエスさまは十字架を選んで来られました。これが最後の選択だったのです。そしてイエスさまは、今回も十字架の道を選ばれました。というより、一切の決定を父なる神さまにゆだねられたのです。ペテロに、「サタンが、あなたがたをふるいにかけるように願って聞き届けられた」(31)「あなたのために祈った」(32)と言われたことは、ご自分のことでもあったと思うのです。ですから、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われ、ご自分のために祈るように弟子たちに願われたと、聞いていいのではないでしょうか。ご自身は、私たちの執り成しを必要とされるようなお方ではありませんが、それでも、信仰共同体の中で、私たちと愛を共有することを望まれたのです。そして、弟子たちの働きで最も大切なことは、いっさいは父なる神さまがお決めになることであり、ただその恵みのうちに歩むようにと、祈りの中で、それを学んでいくように教えられたのです。迫害の時代を迎え、人間の知恵や小細工によって生き延びようと図るところが増えて来た、ルカの愛する異邦人教会には、とりわけその学びが必要でした。


V 祈り、そして御力を

 今朝のテキストから、ルカのメッセージをもう一つ聞いておきたいと思います。それは、イエスさまが苦しみながら祈っておられると、「御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた」(43)というところからです。これはルカだけのものですが、ここには、ルカの一つの明確な目的が込められていたと思われます。この福音書には、他にも御使いが何回か登場してきます(主の降誕物語)が、いづれも、イエスさまがメシアであるという証言のためでした。その証言が、十字架の苦難物語にまで延ばされているのです。それは、イエスさまがご自分の民に捨てられても、なおその民にとってはメシアであるという、ルカのメッセージではないでしょうか。

 ルカの記事は、ゲッセマネの園におけるイエスさま逮捕劇に移っていきますが、まず最初に、裏切り者イスカリオテのユダが再登場してきます。「イエスがまだ話をしておられると、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。『ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか』」(47) 口づけは愛情表現でしょう。そんな本来、麗しくあるべきことをもって、イエスさまの十字架の出来事が始まっていきます。イエスさまが「ご自分の民に捨てられた」という悲しい出来事を、この記事は残酷なまでに浮かび上がらせています。それはきっと、私たちの人間性がイエスさまに向かう、本来の姿勢なのではないでしょうか。教会という愛の共同体で、私たちのそんな部分がむき出しになってはいけないと、ルカは、警告を込めてこれを記しました。そんな警告を、ルカはもう一つ続けました。「剣を買いなさい」(36)と言われたイエスさまのことばを誤解した者(ペテロ)が、今こそ剣を使わなければと、剣を抜いて、イエスさまを捕らえに来た者たちに斬りかかったのです。彼は大祭司のしもべの耳を切り落としましたが、イエスさまは「やめなさい。それまで」と言われ、彼の傷を直しています。ここに語られている風景は、イスカリオテのユダとは正反対の方向ですが、徹底的に人間そのものなのでしょう。彼は、これは正当であるとして、正義を振りかざしました。しかし、そんな正義が教会の中で通用するとしたら、それは間違いであると、これもルカの警告なのです。いづれも、「今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(53)と言われたイエスさまのことばに象徴される、サタンと手を結んだかに見える、現代の姿に重なっているようです。愛も正義も、メシア(キリスト)なるイエスさまから頂かなければならないものです。「御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた」とは、そのことを指しています。教会は、神さまがご支配なさるところでなければなりません。そこには、イエスさまがいらっしゃるのですから。ルカは、苦難の時代を迎えた私たち現代の教会に向けて、その立ち方はこうであると、このメッセージに思いを込めたのではないでしょうか。祈り、御力を頂きながら聞いていきたいと願います。