ルカによる福音書

92 主の前に立つ日が

ルカ  21:20−38
イザヤ 60:19−22
T 未曾有の出来事が

 受難週・火曜日の夜、オリーブ山山腹で、イエスさまが弟子たち(使徒たち・他わずかな弟子たち)に終末のことを語られた長いお話の、今朝はその第二部です。第一部で「石がくずされずに積まれたまま残ることのない日々がやって来る」(6)と、神殿崩壊のことが語られました。不安からでしょうか。弟子たちはそのことに触れようとはせず、イエスさまもまた、何故かそれ以上は沈黙しておられます。しかし、そのことが発端になって、この長いお話が始まりました。偽メシアの出現、戦争や暴動の広がり、大地震、疫病、飢饉といった事柄です。第一部では、ユダヤ人が身近に見聞きし、経験していたそんな事柄が、実は終末の前兆であると語られたのですが、弟子たちは、自分たちはまさにその前兆の時代に生きているのだと強く感じたことでしょう。その終末の一こま一こまが、ここに来て、誰もがまだ経験したことのない出来事へと移っていきます。ルカは、この終末に関する出来事が、連続した「神さまの時」であると感じているのでしょうか。彼にとっても、イエスさまのお話の相当部分は、恐らく理解し難いものでした。ですから、彼はマタイのようにイエスさまのお話を残らず記録しようとはせずに、「神さまの時」を中心に、編集に全精力を傾けています。

 「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20) その最初に取り上げられたのが、エルサレム滅亡という、一層ショッキングなことでした。未経験と言いましたが、実は、600年ほど前にユダヤ人は、バビロンの軍隊によってエルサレム陥落と神殿崩壊、更に捕囚という屈辱を味わっていました。それは彼らの、神さまに対する罪の結果でした。エレミヤ書は全編を通してそのことを証言していますし、第二神殿を再建したエズラも次のように告白しています。「私の神よ。私は……あなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は……高く、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たち……は、王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥をみせられて、今日ある通りです」(エズラ9:6-7) しかし彼らは、それほどの痛みを経験しながら、なおも同じ轍を踏んでしまったのです。いや、同じとは言い難い。先の祖国喪失はたかだか70年にすぎませんでしたが、今度は、それが「異邦人の時の終わるまで」(24)続くと言われるのです。それは終末の出来事であって、現代に建てられたイスラエル共和国さえも、恐らく、完全なる祖国復活の不完全なひな型にすぎないのです。ユダヤ人だけでなく、現代の私たちにとっても、未経験、未曾有の出来事が起こるのだと聞かなければなりません。


U 主のあわれみの証言者として

 エルサレム滅亡が現実となったのは、AD70年のことでした。イエスさまの時からわずか30年ほど経ってのことですが、イエスさまは、これを終末の非常に重要な出来事として、タイムテーブルに掲げられました。「報復の日」(22)とありますが、これはエレミヤやホセアにある神さまの宣言でした。「(貧しい者たちを食い物にした)このような国に、わたしが復讐しないだろうか。恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ」(エレミヤ5:29-31) しかし、黙示録にヨハネが、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た」(21:2)と証言していますが、そのことなのでしょうか。タイムテーブルの最終章は、そんなエルサレム再興のことだと覚えなくてはなりません。ここに、「逃げなさい」(21)と言われた「人々」がいます。それは弟子たちではなかったかと思うのです。エルサレム滅亡時に、一般市民は(熱心党から)市外へ退去することを禁じられたそうですが、その禁止命令が出る前(AD66-70年)に、キリスト教徒たちはペレヤに避難し、難を逃れたと記録(エウセビオスのキリスト教史)にあります。恐らく、その「時」(最終章)の証言者となるために、イエスさまによって「残りの民」とされたのではないでしょうか。それは、私たちもそこに加えられ、聞いたその証言を次世代の証言者に引き継いでいく責務を負うのだ、と理解しなければならないでしょう。

 しかし、その最終章を迎えるには、くぐり抜けなければならない高いハードルが待ち受けています。次ぎにイエスさまが掲げたのは、更なる後の世に全世界を襲うであろう「苦難の時代」(と言っていい)の幕開けです。「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです」(25-26) 詳しいことは分かりませんが、なんと今私たちが経験しつつある時代に、あまりにも重なって来るではありませんか。


V 主の前に立つ日が

 そんな天変地異や戦争なども恐ろしいことですが、恐らく、最も警戒すべきは、狂い出す私たちの心ではないでしょうか。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷える」(マタイ24:12)と言われます。「選ばれた者のために、その日数は少なくされる」(マタイ24:22)のでなければ、とても耐えることは出来ないでしょう。ルカは、彼の時代にも主のあわれみによって生かされているのだから、きっとその時にもと、そういったことを何も加えず、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」(27-28)と締めくくります。私たち自身の時代になのでしょうか。それとも、次世代? その次ぎ? なのでしょうか。いづれにしても、そう遠くない時期に、私たちはそんな光景を目撃することになります。頭を上げて主を迎えるのか、それとも、恐れおののいて迎えるのか。私たちの「今」が問われている、と聞かなければなりません。

 29節以下も、そんな私たちに対する「備え」の教えなのでしょう。これは、弟子たちの「いつ起こるのか」「どんな前兆があるのか」(7)という問いにイエスさまが短くお答えになったもので、恐らく別の資料にあったものを、この終末の教えフレーズの締めくくりにしたものと思われます。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません」(29-33) 「わたしのことば」とは、終末のことを教えられたイエスさまのことばでもありますが、イエスさまご自身と聞くほうがいいでしょう。天地が滅び去ろうとしている時に、決して滅びることのない永遠のお方からの、御国への招きなのです。

 その招きを心に刻みつけながら今を生きるようにと、ルカは、これも彼だけの資料から、イエスさまのことばに自分のメッセージも重ねているようです。彼の愛してやまない異邦人教会も少ばかり歴史を積み重ねて、信仰の歩みに疲れて来たのでしょうか。現代の私たちもですね。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかしあなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい」(34-36) ここに、何の説明も加える必要はないでしょう。その通りに聞きたいと思います。主の前に立つ日は近いのですから。
 37-38節、イエスさま残りの日々がいよいよ少なくなって来ました。「時」が迫って来たのです。