ルカによる福音書

90 信仰を献げて

ルカ   21:1−4
出エジプト 3;7−9
T くつろぎの一日を

 「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた」(1)
この記事は恐らく、受難週・火曜日のことと思われます。論争の一日(月曜日)を終えて、多分、イエスさまはベタニヤのマルタの家へ帰られたと思われますが、次の日、朝早くからエルサレムの神殿に来られ、参詣する人たちの様子をご覧になっていました。広い外庭・異邦人の庭から「美しの門」と呼ばれる分厚い、金銀ときらびやかなコリント真鍮で飾られた壮麗な門(他にも12の門があった)を通ると、そこはユダヤ人しか入れない「婦人の庭」と呼ばれるところです。そこには婦人たちばかりでなく、たくさんの男性もいました。その庭で人々は、しつらえてある献金箱(13個、口の形状から俗にトランペットと呼ばれた)に献金を投げ入れ、祈るのを常としていたようです。

 その奥に、ユダヤ人の男性だけが入ることのできる、「イスラエル人の庭」がありました。そこはそれほど広くはなく、特別な宗教儀式が行われる時には非常に混雑したそうですが、通常の神殿参詣は婦人の庭で足りていたのでしょう。イエスさまがご覧になっていたのは、人々のそんな普段の信仰生活でした。前日、すべての論争に敗れたパリサイ人たちは、「もうそれ以上質問する勇気がなかった」(20:40)と質問することを諦めていましたので、もはや敵対する者たちが近づいて来ることはありません。人々の祈り献げるその敬虔な姿を、イエスさまはゆったりとくつろぎながらご覧になっていたのでしょう。この日がイエスさまにとってどんな一日であったか、ほとんど記事がありませんので想像ですが、イエスさまを見つけて集まって来た大勢の人たちに、いつものように神さまのみ国のことを教え、病人も癒しておられたのでしょう。ぎすぎすしたとげとげしい前日とはうって変わって、この日はイエスさまにとって、ガリラヤでの日々が思い出される、安らぎの一日ではなかったでしょうか。しかし、それもほんの束の間、陰では反対者たちが、イエスさまを滅ぼすべく暗躍していました。


U 2レプタの献金

 さて、婦人の庭でくつろがれているイエスさまは、大勢の人たちが献金している様子をご覧になっていました。きっとそこには、金持ちたちの、こぞって大金を献金箱に投げ入れる光景が繰り広げられていたのでしょう。もう一つある並行記事には「イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた」(マルコ12:41)とあります。この献金の仕方ですが、参詣人自身が自分でお金を入れるのではなく、そこに控えている祭司が献金を受け取り、それを献金箱に投げ入れる。その時、献げる人は祭司にその金額を告げる。そんな風景だったようです。これは想像ですが、きっと一部の金持ちは、その金額を大声で言ったのでしょうね。その金額に回りからどよめきが起き、すると、次の人は負けじともっと多額の献金を、そしてその次の人も……と、そんな献金の競争みたいなことが起こっていたのではないでしょうか。きっとこれは、パリサイ人や律法学者たちにはあり得た光景でしょう。「私のほうがより信心深い、私こそ神さまからもっと大きな祝福を!」という具合にです。ルカは、マルコのそのような詳しい描写を、わざわざ避けています。ことさら聞き耳を立てなくても、その庭にいればそんな様子は分かると。きっと、献金をする人たちに、金持ちが多かったのでしょうね。だから、「金持ちたちが献金箱に……」とだけ記しました。金高の多いことが信仰の励みになっていたのでしょうから、必ずしも悪いとは言えませんが、ルカはそれを、その前のイエスさまが「律法学者たちには気をつけなさい。……」(20:45-46)と言われた記事につなげ、神さまの選びの民・ユダヤ人社会の退廃ぶりに、眉をひそめているようです。

 するとイエスさまの耳に、「レプタ二つ」という低い小さな声が入って来ました。見るからに貧しいやもめと思われる女の人です。レプタ銅貨はユダヤ最小単位の通貨、今の金額にしても約20円ですが、レートの違いを考慮しても、200円を上回らないでしょう。彼女は、そんなレプタ銅貨二枚を握りしめてこの舞台に登場して来ました。「それが彼女の全財産!」とイエスさまが言われたのは、恐らく、あまりにも少ない金額でしたから、祭司が「?」と聞き返し、彼女が「2レプタです。これが私の全財産です」と答えた、それを耳にされたからではないでしょうか。

 ルカが彼女につけたタイトルの一つは、「貧しいやもめ」です。それが、まるで挿入句にも見えるこの短い記事を、火曜日唯一の出来事としてルカがここに採用した第一の理由となりました。「貧しい者とともにある」のは、「ダビデの子」の中に見たイエスさまの「低さ」を示す一つですが、前回、その低さは十字架のお姿なのだと聞きました。その十字架が、一日経ってぐんと近づいて来ました。この貧しいやもめの登場は、十字架へのカウントダウンが始まったことを物語っているのでしょう。


V 信仰を献げて

 そして、ルカが彼女につけたもう一つのタイトルは、「素朴な信仰者」でした。金持ちたちがこぞって大金を献げる中で、彼女が献金箱の前に立つのはとても勇気のいることだったと思うのですが、しかし、その祈りの中に、他の人が入り込む余地はありません。それが彼女の生きていく唯一の道だったからです。その日その日を食べることだけで精一杯だった彼女にとって、持っていた生活費の全てを神さまに献げるまでには、きっと、何度も反芻しながら生きることを神さまにゆだねようとした、彼女の決心があったのでしょう。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなはある余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」(3-4)と、イエスさまが大勢の人たちが聞いているところで言われたのは、彼女が献げた信仰をご自分へ向けられたものとお受けになった、唯一のお方からの祝福と聞こえてきます。ここは神殿でした。人々の祈りが主に向かう聖なる場所です。イエスさまの祝福は、「わたしは、あなたの悩みを見、あなたの叫びを聞いた。わたしはあなたの痛みを知っている」(出エジプト3:7)という、主なるお方からの応えだったのでしょう。

 ルカはこれまでに、たくさんのユダヤ人の実利的な宗教心に触れてきました。そのようなものは唯一の生ける神さまを信じる信仰などではないと、特に、パリサイ人や律法学者たちの律法主義には強い拒否反応を示して来ましたが、彼の持っている資料の中にこの貧しいやもめの記事を見つけたとき、彼はその信仰をことのほか尊いものと感じたのでしょう。それをイエスさまが律法学者たちを厳しく叱責した記事(20:46-47)と対照させながら、ユダヤの中には、こんなにも素敵な、そして素朴な信仰に立つ人がいるのだと、それがひときわ光彩を放つこの記事になりました。その信仰に倣って欲しいと、ルカの目は、彼が愛してやまない異邦人教会の人たちと、これから誕生していくであろう後世の教会と、更に現代の私たちまでをも見つめ、エールを送っているのではと感じるのです。

 しかし、ルカのメッセージはそれだけではありません。この貧しいやもめは気がつかなかったでしょうが、イエスさまは離れたところに座りながらも、実は、彼女と正面から向き合っていたのです。ルカは、イエスさまが彼女を指して言われた、「誰よりもたくさん」「すべてを」は、実はイエスさまご自身のことであると感じたのでしょう。イエスさまは私のために、ご自分のすべてを投げ出してくださった。そのお方の前に立つ者は、「わが主、わが神」(ヨハネ21:28)と信仰を献げる以外にないと、これがルカ自身の志した信仰の立ち方です。ルカの正面には、いつもイエスさまが向き合って座っておられたのでしょう。私たちが危険に遭遇したとき、祈りを聞いてくださる主が立ち上がって(使徒7:56)くださるのだと。私たちの真正面にも、その方はおられるのです。