ルカによる福音書

87 神さまへの信頼を

ルカ 20:20−26
詩篇 68:32−35
T カイザルへの納税

 今朝のテキスト20:20-26も、同じ月曜日の出来事だったようです。イエスさまの権威問題(20:1-8)で面目を失ったサンヒドリン議員たちは、もはや公然とイエスさまの前に出て来ることは出来ません。しかし、イエスさまを捕縛しようと機会をねらい、「義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう」(20)と計って、暗躍し始めます。「ことばを取り上げて」とは、論争に引き込み、揚げ足を取って、あわよくば、イエスさまに反社会的人物(恐らくローマへの反逆者)とのレッテルを貼ろうというのでしょう。そうすることによって、ローマ総督ピラトが、イエスさま抹殺へと動いてくれるだろうと期待したわけです。

 彼らが巧妙に用意したことばの罠を見ていきましょう。「先生。私たちは、あなたがお話になり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」(21-22)と、彼らはまずイエスさまに対する賛辞から始めます。「先生。今朝のお話(礼拝メッセージ)はとても素晴らしかったです」と、これは、現代でも説教者に絶えずつきまとう罠ですが、講壇からは、神さまのみことばである聖書のメッセージが取り次がれるのです。それは、ただ心を込めて聞くべきではないでしょうか。イエスさまに賛辞を送った彼らは、実際にイエスさまのお話を何回も聞いていた人たちだったと思われますが、聞いてなお歯の浮くような賛辞を……とは、神さまのことばを何も聞いていなかったに等しいではありませんか。

 「カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか」(22) 彼らは、ユダヤ人に重くのしかかっているローマへの納税問題を取り上げました。ユダヤ人は、為政者への税金(市民税)の他に、十分の一税や神殿税などの宗教税と、古くからいくつもの税金に苦しんできました。そして、このローマへの納税です。重税にあえぐ人々のことを思うなら、イエスさまの答えはおのずと明らかな筈であると、彼ら(マタイによるとパリサイ人とヘロデ党)は考えました。パリサイ人は厳格な律法主義で知られる熱心な宗教家でしたから、根本的には熱心党の「異邦人が神さまの選民から税金を取るとは僭越」という過激な姿勢に同調しているのですが、いやいやながらもその義務を果たそうとしています。一方、ヘロデ党はユダヤ人の宗教には全く無関心で、ただ隆盛を極めたヘロデ大王の時代に時計の針を戻したいと願う人たちでした。そのためにはローマの好意を得る必要があると、納税にも積極的だったわけです。そんな正反対の人たちが連れ立ってイエスさまのところにやって来ました。


U 十字架の影が

 ヘロデ党の人たちを同行したのは、イエスさまの答えが納税の是か非のどちらであっても、それに対応出来る備えをというのではなく、恐らく、イエスさまから一層過激な答えを引き出すためだったのでしょう。サンヒドリン議員やパリサイ人から見れば、ヘロデ党は、ユダヤ人の宗教心をかき立てる反面教師という存在でしかありませんでした。彼らはイエスさまの答えに、ローマへの納税拒否だけを想定していました。それを感じ取ったからでしょうか。ルカの記事には、パリサイ人もヘロデ党の人たちも出て来ません。ただ「義人を装った間者を送り」とあるだけです。彼らはイエスさまを、神さまの選民であることを何が何でも守り抜こうとする熱心党運動陣営に、閉じ込めようとしたのでしょうか。そのために、イエスさまを最高のラビ=律法教師であるとし、その教えがまことに神さまの道に叶ったものであると心にもない賛辞を送って、それ以外の選択や逃げ道を塞いでしまったのです。熱心党は、イエスさまと同郷のガリラヤを中心に燃え広がった、剣をとって異邦人支配から脱却すべしという過激な民族運動でした。もしイエスさまがローマへの納税を拒否したら、ローマは強制徴収に踏み切るだろう。ここにいる大勢の民衆が証人なのだから。もしかしたら、イエスさまも剣をとって、反抗に出るかも知れない……。彼らは、そうなることを期待したのです。

 しかし、イエスさまは、彼らのたくらみを鋭く見抜いて言われました。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」「カイザルのです」「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」(23-25)


V 神さまへの信頼を

 彼らがどんなに敬虔深く装っていても、イエスさまは、彼らが神さまから遠く離れていることをご存じでした。完璧な作戦だと思っていた彼らのことばの罠に、彼らの大きな問題点が透けて見えていたのです。イエスさまへの賛辞では「神さま」のことだけを話題にしているのに、肝心な質問は政治問題だけになっており、神さまのことには全く触れられていません。「律法にかなっているか」とは、パリサイ人ですら納税せざるを得ない、当時の社会状況を言っています。決して神さまのことばの規範性を問うものではありません。イエスさまはそのことを指摘されたのです。「カイザルのものはカイザルに」「神さまのものは神さまに」、この二つは同じ比重で並べられていると見るべきではないでしょう。彼らに欠けている神さまのこと、それが中心なのだと言われたのです。それは、宮清め(19:45-46)でもはっきりされた、イエスさまの姿勢でした。神さまの名のもとに行っているという彼らの行為は、ただ自分たちの欲望を覆い隠す隠れ蓑に過ぎないではないか。あなたがたはなんと偽善に満ちていることか。本気で神さまの前に立ちなさいと、イエスさまは彼らに、再度のチャンスをお与えになったのではないでしょうか。

 デナリ銀貨はローマの通貨で、そこには皇帝たちの肖像が描かれていました。その頃の皇帝はアウグスト、バスク・ロマーナ(ローマの平和)に生涯を捧げた皇帝で、徴税も多くはそのためでした。その施策は帝国のすみずみにまで及ぶほどの細やかなものだったようですから、ローマ本国から遠く離れたパレスチナも、その恩恵に与っていたことは言うまでもありません。税金を払いながら、それがいやでいやでならない。それは皇帝に対しても、決して誠実な姿勢ではないでしょう。払うにしても払わないにしても、誠実に向き合うことが大切なのだと知らされます。現代の私たちも同じですね。もし私たちが本気で神さまの前に立つなら、それは時の為政者に対する誠実にもつながっていくのです。当時、いくつもの小さな反乱が繰り返し起きていました。おもに熱心党によるものでしたが、それはやがて大反乱へのうねりとなっていきます。そして、それは国を失うという重大な結果になってしまうのですが、その原因はローマとの戦いに敗北したためではなく、何よりも彼らが神さまの前に立つ姿勢を見失っていたからであると言わなくてはなりません。この二つの問いかけは、一つの問いかけだと聞かなければなりません。現代も同じでしょう。

 やがて、数十年後、初期教会の人たちが皇帝崇拝というローマの命令に逆らい、反逆者のレッテルを貼られ、殉教していきましたが、彼らはまさに、イエスさまのこのことばを身をもって聞いたと言えるのではないでしょうか。彼らは熱心党の反乱には一度たりとも組みせず、ただただ神さまの前に忠実な信仰者でありたいと願い続けました。それそこそ信仰者の本分であると、これは律法学者やパリサイ人たちが聞かなければならないことでした。彼らも宗教人であると自負していましたから、イエスさまの言わんとすることが分からなかったわけではない。ただ分かろうとしなかったのです。彼らが「民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった」(26)のは、「断じて聞くまい」とした、彼らの神さまに対する頑迷さの現われでした。そしてそれは、現代の私たちにも重なってくるではありませんか。不平不満が溢れている現代、その原因は為政者や他の人にではなく、神さまへの信頼を放棄した自らにあるのだと気づかなければなりません。