ルカによる福音書

86 恵みへの期待を

ルカ 20:9−19
詩篇 118:21−29
T 甘い実を期待したのに

 イエスさまは、ご自分の権威に対するサンヒドリン議員たちの抗議を聞いていた民衆に、話し始められました。受難週月曜日の、続きの出来事です。きっと、彼らサンヒドリン議員たちは、イエスさまとの対話に耳を閉ざしてしまったのでしょう。まず、前半のたとえ話からです。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」(10-16) マタイの並行記事(21:33-)は、このぶどう園をイザヤ書にある設計図通りに描いており、ぶどう園とは、神さまがお造りになったイスラエルだと気づかせてくれます。イザヤ書にはこうあります。「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、腐れぶどうができてしまった」(5:2) ルカはそのところを省いていますが、それは恐らく、煩雑になるのを避けてのことと思われます。しかし、省いた分、いっそう現実にイスラエルの抱える問題点が浮かび上がって来るようです。その問題点を見ていきましょう。


U 農夫の道を?

 ぶどう園の農夫たちとは、恐らく、祭司長、律法学者、長老、パリサイ人(マタイ21:45)といったイスラエルの指導者のことと思われます。そして、とりわけ今、イエスさまのお話を熱心に聞いている民衆も、その仲間に加えなくてはなりません。彼らは、神さま(主人)がお造りになったぶどう園・イスラエルの主人公なのです。ルカの目は、ことさら鋭くその民衆を見つめているようです。主人とは神さまのことであって、ぶどう園を農夫たちに貸した後長い旅に出たとは、恐らく、イスラエルが神さまから遠く離れてしまったことを言っていると思われます。民衆はイエスさまをメシアであろうと期待しながら熱心にお話を聞いていますが、それは自分たちに都合良く奉仕してくれるメシアを期待しているだけであって、少しでも風向きが変わると、たちまちそのメシアであることを否定し敵対してしまう者たちであると、イエスさまはよくよく承知しておられました。ですから、「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいた」(19)とありますが、恐らくイエスさまは、初めから、彼ら民衆を念頭にこのお話をされたと聞かなければなりません。そしてルカは、そこに自分を含めた彼の時代の異邦人教会を重ね合わせているのです。教会人といえども、自分の都合や思いを優先してくれるイエスさま(主・神さま)だけを期待している、その現状が見えてくるようです。そんな風潮は、現代の私たちにも重なっているのではないでしょうか。

 もう一つ、ルカが聞いて欲しいと願ったメッセージの中心部に踏み込んでみましょう。そういった人たちからなるイスラエルの歴史は、農夫たちがしもべたちを「袋だたきにして追い帰した」と同じように、神さまから派遣されたしもべである預言者たちの拒否に貫かれてきました。そしてそれは、預言者たちに止まらず、主人が最後に遣わした「愛する跡取り息子」までも拒否することになります。農夫たちはその息子の抹殺を企て、「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」(14)と実行してしまいます(15)が、それは、当時の小作契約が永久小作制度で結ばれていたことを前提にしています。相続人がいない場合、小作人がその土地を所有できたわけです。おそらく、彼らイスラエルの民たち・神さまのみ国を待ち望む者たちは、そのような形でみ国を手に入れることが出来るなどとは、いささかも考えてはいなかったでしょう。ルカは、「これを聞いた民衆は、『そんなことがあってはなりません』と言った」(16)と、彼らのその驚きを記しています。それでも彼らは、この農夫の道を選んでしまいました。こぶしを振り上げてイエスさまを十字架につけてしまったのです。なぜでしょうか。それは、長い間神さまから遠く離れた歩みをしていたために、判断する意識や知恵の基準がおかしくなっていたからでした。そしてそれは私たちのことでもあるのだと、これがルカの強く意識したメッセージではなかったかと思われます。


V 恵みへの期待を

 「そんなことがあってはなりません」と言い切った民衆を見つめながら、イエスさまは言われました。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、また、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです」(17-18) エジプトで石文化を学んで以来、イスラエルには石を取り扱う「家を建てる者」の流れが脈々と続いていました。彼らは、家全体を支える重要な役目を担う「礎石」を選ぶ時、内部にひびの入ったものや、頑丈そうに見えてももろい部分を含む石を、役に立たないものと惜しげもなく捨ててしまいました。ここに引用されたのは詩篇118:22のことばですが、イエスさまはその詩篇をご自分に向けられたものと受け止められました。イエスさまがそのようなお方ではないと私たちは十分に知っていますが、そのお方が欠陥者として捨てられるのです。この欠陥ということには、二つの意味が含まれていることを知らなければなりません。一つは、イエスさまが「悲しみの人で病いを知っていた」(イザヤ53:3)ということです。それは、私たちの病いを背負われたためだとマタイが証言しています(8:17)が、病いということばかりではありませんでした。ヘブル書の記者は、「私たちの大祭司(イエスさま)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)と言っています。その弱さ・内部のひび状態は、本来、私たちのことだったのですが、イエスさまはその弱さをその身に負われた、それが捨てられる筈の欠陥礎石であるという意識です。イエスさまについては、しばしば誤解があるようですが、決してスーパーマンなどではありません。しかし、その弱さを負われたお方だからこそ、私たちの救い主なのだと聞かなければなりません。そして、欠陥ということのもう一つの意味は、十字架のイエスさまを民衆がののしって捨てたということです。彼らは言いました。「もし、神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」(マタイ27:29) 十字架につけられるような者はメシアではなく欠陥者にすぎないと、彼らは決め付けたのです。しかし、イザヤはこう証言しています。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:5)

 ルカは、あなたはイエスさまの十字架をそのように聞くのかと、問いかけているようです。もし、そのように聞くなら、神さまはあなたをみ国に招いてくださる。しかし、聞かないのなら、「だれでも粉々に砕け、粉みじんに(神さまのみ国から)飛び散らしてしまう」のだと。この箇所は、イエスさまの権威問題の続きでした。権威あるお方からの恵みを期待するのか、それとも裁きを覚悟しなければならないのか、それは神さまの前における選択だと、決断が迫られているのです。神さまからの恵みを期待しますと、応えたいではありませんか。