ルカによる福音書

85 権威あるみことばが

ルカ 20:1−8
詩篇 119:105-112
T サンヒドリンの議員たちが

 19章でエルサレム入城を果たされたイエスさまは、受難週の日々を、夜はベタニヤ(もしくは、オリーブ山)、日中は神殿で過ごされたようです。ルカは曜日等をほとんど示していませんので、他の福音書を参考に推測しますと、20-21章を、受難週の前半、月曜日から水曜日の出来事に当てているようです。今朝のテキスト20:1-8は、マタイによりますと(21:18)、エルサレム入城の翌日のようですが、ルカはそのことに全く関心を示しておらず、ただ「ある日」と言っているだけです。きっと、ルカには何らかの意図があるのでしょう。それを聞いていきたいと願います。

「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょに立ち向かって、イエスに言った。『何の権威によって、これらのことをしているのですか。あなたに権威を授けたのはだれですか。それを言ってください』」(1-2) 「祭司長、律法学者、長老(民の有力者-19:47)」と並べられていますが、彼らはサンヒドリン議会の議員たちでした。イエスさまが神殿の前庭で民衆を教え、福音を宣べ伝え、恐らく、そこで病人のいやしも行われていたと思われますが、彼らはそれらを止めさせようと意気込んでやって来たようです。神殿域を管理するのは、彼らの重要な務めだったからです。そして、たといそんなことがなくても、イエスさまは危険人物であるという回状が、ガリラヤをはじめ各地のパリサイ人や律法学者たちから届いていました。もともとそれは、サンヒドリンの議員たちの指令だったのですが……。ですから、イエスさまがエルサレムに入って来るとなると、彼らは、当然、何とかしなければと協議を重ねていたと思われます。そこへ、イエスさまの宮きよめ(19:47)の出来事が報告されました。イエスさまを糾弾しようと待ち構える彼らにとって、絶好の機会が巡って来たわけです。ここで彼らが連れ立ってイエスさまのところにやって来たのは、イエスさまを処罰するか、またはエルサレムから追い出そうとの協議がまとまったからなのでしょう。「立ち向かって」(つかつか-永井訳)ということばには、そんな彼らの意気込みが感じられます。


U 十字架の死の影が

 「何の権威によって、これらのことをしているのですか。あなたに権威を授けたのはだれですか」 彼らは、イエスさまの権威を問題にしました。イエスさまご自身は決して権威を振りかざしてはおられないのですが、どうも彼らは、その権威に敏感だったようです。これは、一見、イエスさまの出所進退を明らかにするという、いかにもメシアを名乗る人物への、彼らの役目柄当然の尋問のように聞こえますが、それは回りで聞いている民衆を考慮したもので、実は、何重にも張り巡らした、彼らの巧妙な罠だったと言っていいでしょう。「権威を与えた者は誰か」 この質問には3つの要素が考えられます。第一は、その権威を与え得る唯一の公的機関が、サンヒドリン議会であるということです。サンヒドリン議会は、ユダヤ最高の立法府であり、行政、司法にも最高権威機関として機能していました。ところが彼らは、そのような権威をイエスさまに授与してはいません。地方のシナゴグが授与したとも考えられますが、その場合、それは地方のシナゴグだけでの権威に限定されてしまいます。エルサレムの神殿域でその権威を執行するには、結局、彼らサンヒドリン議員たちの、授与ないし許可が不可欠なのです。もし、イエスさまが「○○から」と具体的な人名を答えたとしたら、それは無効であるとして、イエスさまの名声を失墜させることが出来る。こうして第一の芽をつぶして彼らは、イエスさまに第二の答えを期待しました。それは「神さまからの権威」というものです。彼らは、イエスさまがメシアとしての権威をもって行動していることを十分に承知していましたが、そのことに触れようとはしません。あくまでもイエスさまご自身の口から、「神さまからの権威」という答えを引き出そうとした、それが彼らの目的でした。その答えは、即、死罪に当たるからです。やがて、彼らのこの拘(こだわ)りが、イエスさまの答えを引き出し(22:70)、イエスさまの死刑判決を確定することとになります。そして第三の場合ですが、彼らは、イエスさまが何も答えない可能性も検討していたかも知れません。正当な権威がなく、大胆だけからの宮きよめ、ユダヤの刑法は、その場合にも死刑と定めています。

 彼らの悪意ある目的、「イエスを殺そうとねらっていた」(19:47) と、そのための糾弾であったことが浮かび上がってくるではありませんか。彼らサンヒドリン議員たちには、神さまの権威を代執行しているという自負がありましたから、自分たち以外にその権威を主張する者に、彼らのアンテナが特別敏感に反応したのではないでしょうか。しかも彼らは、初めから、イエスさまの権威など絶対に認めないという、断固たる決意を持ってやって来たのです。


V 権威あるみことばが

 彼らサンヒドリンの議員たちは、神さまの権威を守らなければと、本気で考えていたのでしょうか。恐らくそうだったのでしょう。当時、にせメシアが続出したことからも、その権威が侵されようとしていたと言える状況下にあったのかも知れません。しかし、彼らが熱心になればなるほど、神さまの権威は、そのように人の手によって守られなければならないものなのかと、疑問を感じてしまいます。神さまの権威とは、何人たりとも介入し得ない領域ではないでしょうか。イエスさまの権威は、まさにそのようなものでした。彼らが問題視すればするほど、イエスさまには彼らが束になっても敵わない神さまの権威があるのだと、そのことが浮き彫りになってくるようです。その権威−ご栄光と言い換えていいのかも知れませんが−、そのもとで私たちのなし得ることは、ただひれ伏し、賛美することだけでしょう。イエスさまの権威問題は、イエスさまを受け入れる人たちと反発する人たち双方の、中心問題だったのです。それは、現代の私たちも含めてあらゆる人たちが、イエスさまを「私の主である」と告白するのか、或いは否定するのか、が問われているのだと聞かなければなりません。ルカがこの記事から「翌日」ということばをはずしたのも、恐らく、そのことを意識してではなかったでしょうか。

 イエスさまはサンヒドリンの議員たちに、逆に質問されました。それは、彼らの攻撃をかわそうそされたのではなく、神さまご自身としてのお方からの真摯な問いかけと聞かなければなりません。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか」(3-4)「天」はもちろん「神さま」のことです。かつてイエスさまは、「パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒んだ」(7:30)と言われましたが、今また彼らは、「なぜ信じなかったか」(5)と、その立ち方を思い出しています。そんな彼らでしたが、悔い改めて、ヨハネの中に神さまの御手を認め、受け入れ、「天からです」と答えるなら、それはイエスさまに対する「然り」でもあるのです。すると、イエスさまもまた彼らを受け入れてくださるのだと、この問いかけには、神さまの恩寵に富んだ福音が隠されているようです。

 彼らは、「しかし、もし人からと言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから」(6)などと考えた末、「分かりません」と答え、イエスさまもまた、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われました。これは彼らへの断罪ではなく、保留なのだとルカは聞いたのでしょう。そこに、彼だけが記した十字架上のことばが聞こえてきます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(23:34) きっと、神さまから遠く離れているかに見える現代も、同じではないでしょうか。神さまのことばが真に権威あるものと聞かれるなら、鬱積(うっせき)した現代のさまざまな問題は、きっと消し飛んでしまうのでしょう。そのことばを取り次がなければと願わされます。