ルカによる福音書

81 主のお働きを

ルカ 19:11−27
ハガイ   2:4−9
T 神さまのみ国が

 「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである」(19:11) 今朝は、イエスさまがエルサレム途上で弟子たちを教えられた10回の教えの10番目、最後です。その冒頭の部分で、これはルカの前書きですが、イエスさまのお話が、ザアカイの家でのこととして語られています。ザアカイの記事に、こんな情景が記されています。

 町の人たちが言いました。「あの方は罪人のところに行って客となられた」(19:7) 先週ここを、《彼らはイエスさまの後にぞろぞろついては来ますが、イエスさまのことを何一つ知ろうとはしていません。ただ、混乱し、閉塞したユダヤ社会を変えてくれるメシア・英雄であることだけを望んでいたのでしょう。もし、イエスさまが新しいメシア王国を造られるなら、自分たちの貧しさは解消されるのでは……》と想像しました。彼らは、(自分たちのように)正しいユダヤ人ならば、罪人と接触して自分を汚すようなことはしないものだと思っていたのです。まして、これからエルサレムに上ってメシア王国を建てようとするお方がそんなことでは、「本当にこの人はメシアなのだろうか」、それが彼らのつぶやきでした。メシア王国への期待は、人々のそんな疑いとは別に、弟子たちにもあったのでしょう。一行に先導者がいたり、仰々しい行列が仕立てられたのも、そんな期待があってのことと思われます。彼らのその期待を見た、イエスさまのお話が始まります。

 「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」(12)
 この話には、恐らく、別々のものだったと思われる二つの断片が組み込まれています。一つは、「彼は十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで、商売をしなさい』」(13)と始まるミナのたとえ話で、分量的にもこの話の大半を占めています。そしてもう一つは、12節の出だしの文に直結するように、「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」(14)と加えているところです。これは、恐らく27節にも続き、その分量は多くはありませんが、間に13節と15-26節のミナのたとえ話を差し挟みながら、まるで主役のようにそのたとえ話を包み込んでいます。これら別々の断片が合成されて、一つの話になりました。きっとルカの編集なのでしょう。イエスさまのメッセージに、ルカのメッセージが重ね合わされているのだろうと思われます。聞いていきたいと思います。


U 主の別れと再会の狭間に

 どちらを先に取り上げたらいいのか迷いましたが、主役から見ていくことにしましょう。
 12節と14節が組み合わされている状況、これはたとえ話のように話されていますが、この設定にはモデルがあります。AD4年、ヘロデ大王が亡くなり、その息子アケラオが父の遺言によってユダヤ地方の君主(四分封主/領主)になりました。そこで彼は、父王の後継者として全ユダヤの王たる承認を得ようとローマに行きます。父王もユダヤ王たる認可をローマから得ていたのです。ところが、同じ頃に、ユダヤ人の使節団がローマを訪れ、ヘロデ家の統治を廃してユダヤをローマの直轄地にするように陳情していました。アケラオはその後暴君ぶりを発揮し、やがて位も領土も失って追放されるのですが、そのことは必要ないとばかりに、ここでは一切触れられていません。遠くに行って王位を得て帰って来る。恐らくイエスさまは、そのモデルにご自分を重ね合わせておらます。これはイエスさまご自身のことなのです。メシアであるイエスさまも、人は誰も認めようとはしないのですが、王権を与えられるところに赴いて、始めてその権力が行使されるのです。使徒信条はそのことを端的に物語っています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」 弟子たちとの別れと再会、それは昇天と再臨に他なりません。エルサレムに上られるのは、弟子たちが期待したように、神さまのみ国を打ち建てるためではなく、実は、彼らと別れるためだったのです。

 そのことを念頭に入れておきますと、ここに語られているもう一つの筋書き・ミナのたとえ話が、なぜ一つの話の中で融合しているかが腑に落ちてきます。このしもべは弟子たちなのです。バルテマイの記事(18:35-43)で、イエスさまのエルサレムへの旅は終焉(しゅうえん)に近づいたが、その歩みは終わるわけではない。その信仰共同体には弟子たちも加えられて、新しい歩みが始まるのだとする、ルカのメッセージを聞きました。そのことをルカは、ここでも意識しているのでしょう。


V 主のお働きを

 王は遠いところに旅立つ前に、10人のしもべたちを呼んで1ミナづつを与え、「これで商売をしなさい」と命じました。マタイの並行記事(25:14-30)では、計算上に用いられるだけの最高額貨幣・タラントになっていますが、ルカはここでタラントに次ぐ高額貨幣・ミナにしています。1ミナは労働者1人の100日分の賃金にあたりますが、ギリシャの通貨ですので、この福音書の読者層を考慮したものと思われます。いづれにしても、王は彼らに自分の留守中のことを託しました。その商売は、王に敵意を持つ人たちのところで行われるものでしたから、それは、王の帰国後の統治が円滑にいくようにという政治的意図を含んでいたわけです。ですから、その1ミナを元手に10ミナ儲けたしもべには、「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい」(17)という大抜擢となり、5ミナ儲けた者にも5つの町の支配をゆだねますが、恐らくそれは、新しい国造りが始まっていくとの暗示ではないでしょうか。すると、第三のしもべが、「ご主人さま。さあここにあなたの1ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものを取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから」(20-21)としたその姿勢は、王の意図を全く理解していない、新しい国造りの始まりに全く心が向いていないそのあり方を暴露するものであり、「その1ミナを彼から取り上げて、10ミナ持っている人にやりなさい」(24)と、厳しい処遇をされてもやむを得ないと理解出来るでしょう。

 イエスさまは今、弟子たちとの別れを前に、彼らにご自分の働きをゆだねようとしておられるのです。それは、タラントに比べて少額なミナかも知れませんが、彼らが応え得る範囲での働きということなのでしょう。ルカはそれを、主の教会をこの地上に建て上げることである、と暗示しているようです。彼は、使徒行伝時代に向かって教会形成がいよいよ始まるのだと、弟子たちの時を見据えているのです。そしてその働きは、現代の私たちにまで続いているのですが、地上に主の教会(地域教会)を建てるという、いかにも欠けの多いものでした。しかし、それでも私たちは、全力を傾けてその働きに邁進(まんしん)していかなければなりません。もうすぐ、真の教会・神さまのみ国を伴って、再臨の主がいらっしゃるからです。私たちの儲けは新しいみ国に組み入れられ、イエスさまは、その儲けに期待していらっしゃるのです。「だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられる」(26) 「私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ」(27)と、祝福とやや乱暴な警告も加えられていますが、弟子たちはその緊張の中で働きを開始しました。その祝福と審判の主が、もうすぐおいでになるのです。私たちは、先輩たちより更にその時に近づいているのですから、これを一層の信仰の励みにしていこうではありませんか。