ルカによる福音書

80 主の宣言を

ルカ      19:1−10
エゼキエル 34:15−16
T 金持ちの取税人

 「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった」(1) 「それから」(新改訳)とは、バルテマイの出来事を終えてからとしたルカの意図を受け、冒頭の「接続詞and」をそう訳したのでしょう。それは本当は、バルテマイが苦悩の一夜を過ごそうとしたその時のことでしたが、ルカは、これもエルサレム途上の独立した出来事であるとして、弟子たちへの9番目の教えに組み込みました。ここからも、彼の新しいメッセージが聞けると期待します。

 「ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである」(2-4) エリコには信じられないほど大きな邸宅があるんですね。塀に沿ってくたびれるほど歩いても、まだその塀が続いている。反面、これが人の住む家かと疑いたくなるような、粗末で小さな泥壁の掘っ建て小屋も並んでいるのです。当時も似たような町並みだったのではないでしょうか。そのコントラストから、「金持ちの取税人」たちが、貧乏人から不当な手段でお金を巻き上げていたのであろうと実感させられます。取税人とは、ローマに納める税金を委託されて取り立てる人のことですが、ローマは、彼らが取り立てを完了するまでその税を受け取るのを待つなどということはしません。納税期限までにローマに支払わなければならないのは、民衆ではなく、委託された取税人なのです。ですから、自分のふところが痛まないように、彼らは誰からも多めに搾り取るのが普通でした。そんな者たちの中でも、特に「金持ち」と言われる人たちは、一般取税人に輪をかけた、あくどいことをしていたのだろうと想像されます。


U 主との交わりを許されて

 ザアカイはエリコの税関を仕切る取税人一団のチーフでしたから、一層、守銭奴的な人物だったのでしょう。町の人たちは彼のことを「罪人」(7)と呼んでいます。泥棒とか強盗を見るような感覚だったのでしょうか。そんなザアカイの耳にも、イエスさまがエリコに来られたというニュースが届きました。彼が、なぜひと目なりともイエスさまを見たいと思ったのか、何も語られていませんが、木に登ってまでイエスさまを見ようとしたのですから、よほどのことだったと思われます。いちじく桑(無花果ではない)は、15bにもなる大きな木で、枝を四方に張り出しているそのこんもりした樹形は、人には気づかれずに辺りの様子を窺うことが出来るもってこいの場所でした。

 ザアカイは、イエスさまがそこにさしかかって来られた時、道沿いにあったいちじく桑の木に登りました。それをご覧になっていたのでしょうか。イエスさまはその木の下で足を止められると、上を見上げて言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(5・新改訳) この後半の部分はいろいろな訳があって、比べてみますと面白いのです。いくつか紹介しましょう。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(新共同訳) 「私は今日、あなたの家に留まらねばならないから」(岩波訳) こう読み比べてみますと、新改訳が妥当で味わい深いと思われます。イエスさまの「そうしよう」という強い意志がくみ取れるようです。

 きっと、ザアカイがその木に登ったのは、ご自分を見るためと分かっておられたのでしょう。ザアカイという名前までもご存じです。なぜでしょう。「ルカは何も語っていない」と、注解者はそこまでしか言いません。それが限界なのでしょう。しかし、聖書のメッセージを聞こうとするなら、私たちにはその先の広がりを想像することが許されるのではないでしょうか。細かいことを詮索しなくても、ザアカイという名前をご存じだったのです。なぜザアカイは木に登ってまでイエスさまにお会いしたかったのか。そして、イエスさまから何を聞きしたいと望んだのか。「イエスさまはご存じであった」、それだけで十分なのです。ルカは、ザアカイに私たちを重ね合わせているのでしょう。主は私たちのこともよくご存じであると、そんな彼のメッセージが聞こえてくるではありませんか。

 ザアカイは、イエスさまが自分の家にお泊まりになると聞いて大喜びです。大急ぎで木から、イエスさまを見ていることを、誰にも気づかれないように登ったはずの木から降りて来ました。それは、彼が変わったことを示しているのではないでしょうか。自分のことをよく知っておられる方の前で、もう自分を隠しておかなくてもいいのです。ありったけの自分をさらけ出しても、恥じる必要はありません。町の人たちが決して許そうとはしなかった交わりを、彼は、こともあろうにメシアたるお方に許可されたのですから。彼は、今までの自分とは決別して、新しい者へと変えられたのです。


V 主の宣言を

 イエスさまをあのとてつもなく広大な屋敷にお連れしたザアカイに、恐らく、ぞろぞろついて来た町の人たちは、中には決して入ろうとはせずに、つぶやきます。「あの方は罪人のところに行って客となられた」(7)と。彼らはザアカイが変えられたことを理解しません。中にはザアカイとともに変えられ、弟子たちと一緒に主を賛美した(8:43)人たちもいましたが、大半はバルテマイに「ナザレのイエス」(8:37)と教えた時と同じままだったのです。イエスさまの後にぞろぞろついては来ますが、そのイエスさまのことを何一つ知ろうとはしていません。ただ、混乱し、閉塞してしまったユダヤ社会を変えてくれるメシア・英雄であることだけを望んでいたのでしょう。もし、イエスさまが新しいメシア王国を造ることになれば、自分たちの貧しさが解消されるかも知れない……と。

 しかし、ザアカイは違いました。「背が低かったので……」という言い方から、恐らく、この記事の原証言はザアカイ本人でした。少し、想像をふくらませますと、彼は、そのことで人から馬鹿にされ、そんなユダヤ人社会に反抗して、ローマの取税人になる道を選んだのでしょうか。「背が低い」という表現には、彼の全人生がそこに込められていると思うほど強いインパクトが感じられます。ですから、彼はユダヤ人社会には全く興味を示していません。彼にとってイエスさまは、新しい国を打ち建てる王さまではなく、自分から遠く離れていた神さまを強く感じさせてくださるお方だったのです。それはイエスさまが、メシアだったからでしょう。そのお方が、こんなにも反抗的であった自分を認めてくださった。それだけが嬉しいのです。「ところが」(8)とありますので、町の人たちのつぶやきが聞こえたのでしょうか。彼は言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8) 彼のしようとしていることは、こうした場合の律法の規定をはるかに超えたものでした。民数記には、「自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない」(5:7) ですから、ザアカイが申し出た四倍とは、律法規定に縛られてやむなく……といったものではなかったと、お分かり頂けるでしょう。

 イエスさまに見出された喜びが溢れて、彼はこんなにも心のこもったことを申し出たのです。「立って」というところから、彼の躍り上がるような喜びが伝わって来るではありませんか。次のイエスさまのことばは締めくくりにふさわしいものでした。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(10) これはイエスさまの宣言でした。自らそのことを放棄し、神さまに反抗的であったザアカイが、しかし、どんなにそう呼ばれたいと願っていたことか。バルテマイもそうでした。私たちも、主からのその宣言を聞きたいではありませんか。かつてのザアカイやバルテマイは、私たちでもあるのですから……。