ルカによる福音書

8 救いをこの目で

ルカ 2:21−38
イザヤ 12:1−6

T 十字架への道を

 イエスさまがベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。そして何時間か後、そのイエスさまにお会いしようと、野宿していた羊飼いたちが息せき切って坂道を駆け上がって来ました。今朝のテキストは、「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である」(21)「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った」(22)と、生後何日か経っての出来事がいくつか取り上げられます。こう見てきますと、この世に来られたイエスさまの、その歩みが少しづつスピードを上げていると、そんな印象を受けます。お生まれになったイエスさまが次第に私たちの社会に溶け込んでいく、或いは対決していく様子が描かれているように感じます。それは、普通の赤ちゃんが辿る生育の課程ではなく、救い主・キリストとして辿る道なのだとルカは証言しているのでしょうか。そんなルカの証言も含めて、今朝のテキストから聞いていきたいと思います。

 まず最初のところからです。「八日が満ちて……」とは、バプテスマのヨハネ誕生の記事でも語られたことですが、イエスさまがユダヤ人社会の一員になったことを意味しています。そこから、神さまの不思議の中でお生まれになった方が、徹底的に人となられたのだと聞こえてきます。ただ、ヨセフ・マリヤが自分の町ではないところに滞在していましたので、その命名や割礼に際し、残念ながら親戚や近所の人たちの祝福はありません。その代わり、40日のきよめの期間(レビ記12:2~)が終わった時、エルサレムの神殿に行ったことが加えられています。ルカの特別な意識が見えてくるようです。

 ユダヤでは、最初に生まれた者を主に献げなければなりませんでした(23・出エジプト記13:2他)。しかし、父親は金を払って買い戻すことが出来たのです。「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」(24)とは、その支払い金についての律法規定のことです。金持ちは羊や牛などもっと高価なものを贖い金として支払わなければなりませんでしたが、ヨセフは貧しい者たちが支払える最低のものしか用意することが出来なかったのでしょう。これは、イスラエルが奴隷の国エジプトから脱出したときの過ぎ越しの出来事を覚えるためのものでした(出エジプト12章)。ルカは、イエスさまがやがてそのことに深く関わることになると、暗に十字架の出来事を語っているのかも知れません。


U 私たちにも救いが

 その神殿で、イエスさまは二人の人に迎えられました。第一の人はシメオンです。彼は「正しく、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」(25)と言われます。「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」とは、ことさらにメシアを待ち望む人たちのことで、当時そのようなグループがあったのではと思われます。たとえば、現在も正統派と呼ばれるユダヤ人グループが黒づくめの服に山高帽をかぶり、嘆きの壁の前で涙を流しながら「イスラエルの慰められることを待ち望んでい」ますが、それは、メシアが早くおいでになるようにと待ち望むことを意味しています。きっと、昔も今と同じだったのでしょう。シメオンは、「正しく、敬虔な」正統のユダヤ人らしい生き方をしていましたが、その上にルカは、「聖霊が彼の上にとどまっていた」と加えます。そして「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(26)「彼が御霊に感じて宮にはいると……」(27)と繰り返しますが、これがシメオン登場の最大の要因なのでしょう。イエスさまやマリヤについて彼が、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」(29-32)「ご覧なさい。この子はイスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです」(34-35)と言いましたが、それはシメオンの口を通して聖霊が証言したものだと、ルカの中に強く込められている思いが現われているようです。

 イエスさまはシメオンの救い主でした。しかも、「異邦人」や「イスラエル」すべてを含む「万民の」救い主であると、その証言は語っているのです。前回、羊飼いたち登場のところで、「私たち日本人も決してイエスさまによる救いの部外者ではない」と聞きましたが、同じ主題がここからも聞こえてきます。その私たちの救いが、十字架という見るも無惨な出来事を通して実現していくのです。「剣があなたの心さえも刺し貫く」というマリヤへの言葉は、そのことを予表しているようです。


V 救いをこの目で

 シメオンの言葉からもう少し聞いていきたいことがあります。一つは、イエスさまについて「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」とあるところからです。言葉の上からは何も浮かんできませんが、「啓示の光」と「光栄」、これはどちらも神さまの栄光に包まれる様子を言ったものです。強いて言うなら、その重さが違うように感じられます。「異邦人を……」が「御民イスラエルの……」より先に述べられていることと併せ、ルカの関心は異邦人のほうに傾いているのではと感じられます。しかしそれにしても、頑固なイスラエルもまた神さまのご計画の中で救いの民に数えられていることに注目しなければなりません。ただそこに、信仰という私たち異邦人にも要求される立ち方が問われているのです。そのことは、マリヤへのことばの中で暗示されているようです。二つめのことですが、「イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められている」というところから少し考えてみましょう。「イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がる」というのは異邦人にとっても同じですが、「反対を受ける」とは、直接にはパリサイ人や律法学者、祭司、長老といったユダヤ人指導者が念頭に置かれているように感じられてなりません。事実、イエスさまの公生涯で反対の先頭に立った人たちは、そのような人たちでした。彼らはイスラエルの民衆をも巻き込んで、イエスさまを十字架にかけてしまいます。その点でイスラエルは、十字架のことばに聞くことが、極めてむつかしくなってしまったと言えるのではないでしょうか。彼らはその障害を抱えたまま、今に至っているようです。

 そのことを含んでいるのですが、もう一つのことを聞いておかなくてはなりません。このテキストには、ルカが意識して繰り返し用いたと思われる「待ち望む」(25、38)ということばがあります。これは、「一緒に+受け取る」という複合語ですが、新約聖書に9回ある中で、ルカは4回も用いています。その4回中、ここに2回出てくるのです。教会の時代に信仰者となったルカらしいではありませんか。メシア待望といったらいいでしょうか。イスラエルは過去何百年もの間、メシア来臨の約束を待ち望んでいました。その約束があったからなのでしょうか。特に中間時代と呼ばれるBC400年からイエスさまの時代までに、多くの自称他称のメシアが出てきます。ところが、そのメシアはことごとく消えてしまったのです。イスラエルはその失望を忘れることができなくなりました。ルカはその約束が「今日」実現したと何回も繰り返しますが(2:11、4:21、19:9、23:43)、「信仰」が「待ち望む」ことの中心だと、それがこの福音書の中心主題なのでしょう。彼は、そんな信仰の人物としてシメオンとアンナを挙げました。しかし、ルカがシメオンやアンナの信仰を際だたせるほどに、それとは反対に失望を乗り越えることが出来なかった人たちが浮かび上がってくるようです。きっと、現代の私たちもそこに数えられているのでしょうね。そんな現代ですが、エルサレム神殿の一角で、幼子イエスさまを抱きながら「私の目が救いを見た」と証言した、この人たちの信仰を私たちもと心から願わされます。