ルカによる福音書

79 希望の始まりが

ルカ 18:35−43
詩篇  86:6−11
T エリコの町で

 エルサレムは山の街です。そこから北東に、砂漠のような乾燥した荒野を一日路下って行きますと、海抜マイナス260bの低地に、緑豊かな亜熱帯地域が広がっています。そこに、まるで別世界のように、月の町、なつめやしの町と呼ばれたエリコがあります。なつめやしの実をつけた大きな木が町の中心部に……、とても印象的なところです。イエスさまの一行が、そのエリコの町にやって来ました。ガリラヤから一緒だった弟子たちの他に、ペレアなどから加わった、新しい弟子たちやシンパの人たちも一緒です。「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と言った」(35-38) マタイの並行記事(20:29-34)には二人の盲人が出てきますが、ルカはそのうちの一人だけを取り上げます。彼の名はバルテマイ(マルコ10:46)、町はずれの門で物ごいをしていました。エリコは南北に延びた宿場町ですから、北と南に門がありましたが、その時彼が座っていたのは恐らく北門でした。マタイとマルコには「エリコを出て行かれると」となっており、それは、朝、イエスさまがエルサレムに向けて出立された時のことでしたが、ルカの記事は、イエスさまがエリコに着かれた夕方から始まっているのです。バルテマイは夕方、イエスさまのことを聞きました。そして、一晩あれこれと考えて、もう一度イエスさまにお会いしたいと願ったのです。その一晩の間に、取税人ザアカイとイエスさまの出会い(19:1-10)がありました。そのことも聞いたのでしょうか。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫んだのは、その翌朝のことでした。

 一晩、彼が何を悩み、なぜイエスさまにお会いしたいと願ったのか、想像でしかありませんが、目が不自由だということで、彼は格別な辛さと悲しみを味わっていたのでしょう。それが、物ごいという屈辱的な生活を強いられていたことに強調されているようです。しかし、ルカはそのことに関心を示していません。それはマタイの関心でした。マタイには、イエスさまが「かわいそうに思って、彼らの目にさわられた」ということばが加えられています。しかし、ルカがこの記事を「主の物語」に加えたのは、別の理由があってのことと思われます。それを探ってみたいと思うのです。


U 神さまから遠く切り離されて

 ルカの意図が込められていると思われるところがいくつかありますので、拾い出して見ましょう。その一つ目ですが、ルカは、イエスさまがエリコに到着されるのを待ちかねたように、バルテマイ一人に絞ったストーリーを単純に展開します。複雑な要素は必要なかったのでしょう。ルカは、バルテマイという名前にすら関心を示していません。読者が中心点だけを見つめられるようにとの願いが感じられます。二番目は「群衆」です。「群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですかと、尋ねた」とあります。これはルカだけの記事です。エリコは大きな宿場町でしたから、大勢の人たちが行き来していても、不思議ではありません。エリコからエルサレムに行くバスが超満員で乗ることが出来ず、来合わせたジープに乗せてもらったことがあります。それなのにルカは、彼とイエスさまとの接点に、この群衆を挙げているのです。この群衆には、「先頭にいた人々(先導者)」がいますから、まるで戦いに勝利して凱旋する王の行列にも似た整然さを感じますが、だから彼は、その行列の足音に耳をそばだてたのでしょう。ルカは何も言っていませんが、この記事は、彼が、群衆がイエスさまと一緒であることを、うらやましく感じていたと想像させてくれます。そして、それは、彼の絶望的な孤独を浮き立たせているようです。その孤独感は、ユダヤ人社会から切り離されている、という意識に起因していたと思われます。モーセの律法には、障害者、寄留の外国人、やもめにはことさらやさしくなければならないと規定されていますが、現実のユダヤ人社会は、そうした人たちに決してやさしくはありませんでした。目が不自由だというだけで、物ごいをする以外に生きる道はない。恐らく、ユダヤ人会堂の礼拝にも加わえられていなかったのでしょう。まるで、景気悪化で浮かび上がった、弱者切り捨ての現代社会にも重なりますが、そのことは、彼が神さまから遠い者とされていたことを意味しています。神さまに近くありたい。それが彼の切実な願いだったのではないでしょうか。人の世界が見えないことで、一層、彼の神さまを求める思いが強かったのではと思うのです。


V 希望の始まりが

 三番目です。「どなたがお通りになるのですか」「ナザレのイエス」 ここで答えた人は、「ナザレの」と言ったのです(マタイにはない)。それなのに彼は、メシアとしての称号でイエスさまに呼びかけました。「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください」

 彼がどこでイエスさまをメシアであるとしたのか、残念ながら福音書記者たちはいづれも沈黙しています。しかし、恐らくルカは、そのことを念頭に置きながら、次のザアカイの記事を組み入れています。ザアカイの記事は、ルカだけのものです。すると、この記事を夕方から始めていることも頷けるでしょう。そこには、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(19:9)というイエスさまの宣言があります。「アブラハムの子」には、イスラエルの者、神さまに属する者という意味が込められており、彼はその宣言を、窓から中の様子を窺っていた町の人から聞いたのでしょう。「この人もアブラハムの子なのですから」、彼はそのことばをどんなに聞きたいと願っていたことか。阻止されても邪魔者扱いされても、「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください」と、止まずに何度も繰り返し叫んだところに、彼の思いが溢れているではありませんか。

 四番目は、目が見えるようになった彼が、「神をあがめながら」(43・ルカだけの表現)イエスさまについて行ったというところです。彼の「わたしもアブラハムの子でありたい」という願い、神さまに属する者でありたいとの思いが溢れたからこそ、「神さまをあがめながら」イエスさまについて行ったのでしょう。そうしますと、「わたしに何をしてほしいのか」「主よ。目が見えるようになることです」「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」(41-42)とありますが、はたして、目が見えるようになることが彼の第一の願いだったのでしょうか。そうは思えません。それなのに、彼は目が見えるようになることを願いました。彼は、ザアカイのように、主に献げるものを何ひとつ持っていませんでした。ですから、「おまえもアブラハムの子である」と言ってくださいとは、とても言えなかったのです。せめて、目が見えるようになれば、神さまのために何か出来るのではないか。それで願ったのです。見えるようになると、ここで彼は少しも疑っていません。それは小さなことだったからです。

 最後です。彼は「たちどころに目が見えるようになり」(43)、神さまをあがめながらイエスさまについて行きました。それは、イエスさまといっしょにいてうらやましく感じた人たちの、仲間入りしたことを意味します。彼も弟子の一人になったのです。マルコがバルテマイという名を記したのも、その名が弟子たちによく知られていたからでしょう。イエスさまの弟子になる。そこには、「あなたもわたしの子である」という主の宣言を聞き、そして主について行ったという共通の出来事があるのです。そこに、信仰への招きが語られているのです。「あなたの信仰があなたを救ったのです」(42)と言われたのは、その意味においてでした。そして、それは私たち信仰共同体への歩みでもあると覚えたいのです。ルカは、終焉に近づいたエルサレムへの旅を、まだ終わりではないと言っているのです。イエスさまの十字架は、私たちにとってすべての始まりなのです。主の物語には、弟子たち・私たちも加えられ、そこに神さまが先立ってくださる洋々たる希望が広がっていくのです。この閉塞感著しい時代に、その希望をルカとともに見つめ続けたいではありませんか。