ルカによる福音書

78 でも、聞いてください

ルカ 18:31−34
イザヤ  53:1−6
T 救いのご計画を

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます」(31) 十字架の日を迎えるまで、あと一週間を残すのみとなりました。これはエリコの近く、いや、エリコでのことなのかも知れません。エリコからエルサレムまではわずか一日路です。イエスさまは12人の弟子たちだけをお呼びになり、エルサレムでご自分の身に何が起こるのかを話されました。ルカの記事では、9:22、9:44、17:25に続いて4度目の受難予告(マタイとマルコでは3度目)となり、これが最後の予告でした。

 3度の受難予告はすでに取り上げましたので、詳細には触れませんが、もう一度、確認しておきましょう。1度目は、弟子たちがイエスさまに向かって「(あなたは)神のキリストです」と告白した直後のことでした。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして3日目によみがえらねばならない」(9:22) 2度目は、悪霊を追い出したイエスさまに人々が驚嘆している中でのことです。「人の子は、いまに人々の手に渡される」(9:44) 3度目は終末の日のことを話されている時でした。「人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければならない」(17:25) これらはいづれも、それぞれの文脈の中で聞かれることでした。しかし、弟子たちには、言われたことが何なのか分からないまま、不安だけが残ったようです。

 そして今回、4度目の予告ですが、「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです」(31)と始まります。この言い方は、神さまの選びの民という誇りの中に生きていたユダヤ人(弟子たちも)を納得させるものでした。神さまと自分たちを結びつけてくれる、預言者とはそんな存在だったからです。しかしルカは、彼の師パウロが言っているように(Tコリント15:3-)、「預言者たち」に聖書を代表させているようです。これは神さまの救いのご計画・福音であるから、心して聞いて欲しいというルカの願いが伝わってきます。これは異邦人教会への、ルカのメッセージなのでしょう。


U 愛してやまない教会へのメッセージとして

 さて、このフレーズの中心、受難予告のところです。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」(32-33) このフレーズは、文脈としては前後に関連するものが何もありませんので、純粋に受難のことだけを弟子たちに伝えたいとの願いから語られた独立フレーズと聞いていいでしょう。その点で、前の3回の受難予告とは違っています。その受難の何を伝えたいと願われたのか、手探りですが、中心にまで届くように聞いていきたいと願います。そこには、イエスさまとルカの思いがぎっしり詰まっていると感じるのです。

 ここに言われる異邦人とは、ローマ人のことです。イエスさまを逮捕した祭司長、長老たちは、大法廷でイエスさまを死刑にする有罪判決を下しましたが、刑執行の権限まではありません。それで、イエスさまを時の支配者・ローマ総督に引き渡しました。過越の祭りに起こるかもしれない万が一の暴動に備え、総督ピラトはシリヤ駐屯の軍隊をエルサレムに呼び寄せており、その兵士たちが総督の命令でイエスさまを十字架につけました。「あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられる」とは、イエスさまが彼らの慰み者にされたということです。これまでに予告された受難の様子は、祭司長、長老、律法学者によるというニュアンスが強いものでしたが(マタイ20:18)、今度は、それがはっきりと異邦人によると言われます。神さまに敵対するのは、ユダヤ人も異邦人も区別はないのです。そして、イエスさまの救いにも、同じように区別はされていません。福音の広がりを意識されてのことと感じられます。その広がりの中に、現代の私たちも立たされているのです。

 そして、この言い方はマタイにはないのですが(マルコにあるのはルカの影響?)、奇妙なことに、マタイの受難記事にはローマ兵士たちがイエスさまを慰み者にしている様子が描かれて(27:27-31)いますが、兵士たちのあざけりの予告を記したルカの受難記事(23章)には、そのあざけりの行動がヘロデと彼の兵士たちによるものであり(23:11)、イエスさまを十字架にと要求したユダヤ人群衆にもその機会があったのだとして(23:25)、ユダヤ人への嫌悪感を示し、ローマ兵士の行動には何も触れていません。ルカは、たとえそれがローマ人であったとしても、自分もまた異邦人であり、愛してやまない海外の諸教会も異邦人教会でしたから、異邦人がイエスさまに向かってこんな悲しいことを……と、それを記すのに抵抗があったのでしょうか。しかし、イエスさまがこのように言われたのは確かなことでしたから、ここには教会への警告も含め、そのまま記しました。


V でも、聞いてください

 「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」とある、もう一つの中心に移りましょう。「あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられる」というローマ兵士による虐待は、ついにむち打ち、そして十字架へと続いていきます。十字架刑はローマの酷刑でしたが、処刑に当たる兵士たちが罪人全員に同様の侮辱を加えたかというと、そうでもないようです。少なくとも、イエスさまと一緒に処刑された二人の犯罪人には、そのようなことが行われた形跡はありません。イエスさまに対するその侮辱は、特別だったという印象を受けます。なぜでしょうか。これは私の感想ですが、人々(現代)の神さまに対する反応は、自分との関わりが薄い時にはおおむね肯定的ですが、関わりが深くなるにつれ、拒否反応が強くなってくるようです。関わりが強くなると、自分への問いかけが聞こえ、神々の品定めをしている余裕などなくなってしまうからかも知れません。このローマ人兵士たちも、イエスさまがメシアであると聞いて、こんな反応に出たのではないでしょうか。普段なら、こんな無茶はしない者たちなのです。まじめな働き者として知られるローマ人は、宗教には寛容な民族でした。しかし彼らは、まことの神さまご自身であるイエスさまの前に立ったのです。その拒否反応は、イエスさまを自分の「主」とは認めたくないという思いの現われではなかったでしょうか。それは、彼らローマ兵士だけではなく、周りにいた見物人たち全員にも言えることでした。彼らは、「もしイスラエルの王(神の子)なら、十字架から降りてみろ、そうしたら信じるから」(マタイ27:42)と言ったのです。

 神さまに対するこんな反抗的な姿勢は、人間の歴史のどの部分を取り上げて見ても、同じだったと言えるでしょう。(聞きたくないことかも知れません。でも、聞いてください) しかし、神さまは断固人間のそんな思いを斥けました。「しかし、人の子は三日目によみがえる」 これが神さまの答えでなくて何でしょうか。この受難予告の意図も、ここにあったと思われます。イエスさまは、私たちがどんなに拒否しようとも、私たちの救い主として十字架に死なれ、そして、よみがえられたのです。しかし残念ながら、ここでもまだ弟子たちは、そのことが理解出来ませんでした。「わからなかった」(34)とは、弟子たちの証言なのでしょう。その弟子たちがイエスさまよみがえりの証人になりました。しかし、「よみがえりのイエスさまにお会いした」という、経験だけでは証人たり得ません。ルカは、「神さまのことば」がその背後にあることを望みました。「預言者……」を取り上げたのも、そんなルカから私たち異邦人教会への配慮ではなかったでしょうか。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ロマ10:17・口語訳)とあるパウロの教えを、ルカは引き継いでいると言えましょう。これはイエスさまとルカから、「聞きなさい」という私たちへのメッセージなのです。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3) そんなお方が、しかし、私たちの主なのだと。