ルカによる福音書

77 幼な子のように

ルカ  18:15−30
ダニエル 12:1−13
T 神さまのみ国は

 今朝は、エルサレムへの途上で弟子たちを教えられた、5番目(15-17)と6番目(18-30)の二つの記事からです。これは、マタイによりますと(19:13以下)、ペレア出立間際のもののようですが、それをルカは、ここに挿入したと思われます。この二つの記事を、一連の記事の中で見るのがふさわしいと思ったのでしょうか。この二つの記事の中心主題をも合わせ、聞いていきましょう。

 まず5番目の記事からです。「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(15-17) 人々が幼子たちをイエスさまのところに連れて来たのは、「触っていただこうとして」のことでした。祭司やラビなどに触ってもらうことは、祝福を意味しています。子どもたちの健やかな成長を願ってのことなのでしょう。弟子たちがそれを止めたのは、イエスさまがエルサレム行きを急いでいたためと思われます。その頃弟子たちは、このエルサレム行きには、もしかしたら大変な危険が伴うのではないかと少しずつ感じ始めていましたので、余計な雑事でイエスさまを煩わせたくなかったのです。しかしイエスさまは喜んで、その子たちを祝福されました(マタイ参照)。子どもたちが大好きだったのでしょう。市場で遊ぶ子どもたちを、飽きもせず眺めておられたこともあるイエスさまでした。

 ところで、幼子ということばはもともと「嬰児」を表わすのですが、興味深いことに、並行記事・マタイ(19:13-15)とマルコ(10:13-16)には年齢幅が少し広い「幼児」が用いられているのに、ルカはそれをここでわざわざ「嬰児」に代えています。何故でしょうか。「神の国はこのような者たちのものです」とイエスさまは言われました。そして、末尾の繰り返し、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることは出来ない」は、恐らくルカのメッセージと思われますが、それは無条件の信頼ということなのでしょう。ルカはこのメッセージ「子どものように・・・」を聞いて欲しいと願い、ことばの入れ替えを行なったものと思われます。難しい神学など知らなくても、嬰児は最も神さまに近いと言われます。心して聞きたいものです。


U 自信ある生き方の中で

 6番目の記事(18-30)に移りましょう。「またある役人が、イエスに質問して言った。『尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか』」(18) 質問の中心主題は、「永遠のいのち」でした。永遠という概念は、「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いにはいる」(イザヤ45:17)など旧約聖書にも現われていますが、バビロン捕囚以後、特に後期ユダヤ教の時代(BC200〜)に急激に一般民衆の間に広まったようです。混乱の時代を迎え、終末を意識し始めていたためでしょうか。ペレアはのんびりした田舎でしたから、それほどせっぱ詰まった社会状況にはなかったと思われますが、この(若い)役人はエリートだけあって、時代がただならぬ方向に向かって走り始めていることを感じていたのでしょう。若いエリートたちの間に、「永遠のいのち」を見極めたいとする熱病のような思いが流行していたのかも知れません。これは終末のことなのです。「神さまの御国」の言い換えと聞いていいでしょう。ペレアを出立するイエスさまがエルサレムに向かうと聞いて、この先生ならばきっと答えてくださるだろうと、大急ぎで走り込んで来たのです。

 「何をしたら?」という質問に、イエスさまがお答えになります。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」「そのようなことはみな小さい時から守っております」(20-21) この戒めは、モーセの律法の中心・十戒の後半部分(社会的倫理)ですが、奇妙なことに、その順序も替えられていて、前半には「神さまの前における歩み」が語られているのに、それには全く触れられていません。その前半があって後半が意味を持つのですが、イエスさまには、何らかの意図があったのでしょうか。しかし、この役人が、人間同士ならいざ知らず、神さまの前で、よくもまあ、「そのようなことはみな小さい時から守っている」と言えたものだと感心します。彼の中にも、あの神殿で祈ったパリサイ人同様、自らの義に絶対的自信が溢れているようです。役人とは、ユダヤ人会堂の指導者の一人ということなのでしょう。まだ若いのに。それは、その地位を父親から引き継いだことを意味します。ですから、「そのようなことはみな小さい時から守っている」と答えることが出来たのでしょう。そのように育って来たのです。それが彼の自信の根幹を形成していました。


V 幼な子のように

 「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである」(22-23) 全財産を放棄するようにとの勧めは、自分は完全であると思っていた彼の、絶対的な自信を打ち崩しました。彼の満々たる自信は、金持ちの家に生まれ、良い環境の中で育ち、最高の学問を修め、父親の後を継いで町の名士になっている、そんなところから来ていたとはっきりしたからです。そもそもユダヤ教という宗教の誕生には、イスラエル社会に貧富の差が生まれたことに大きく関係していると指摘する声があるのです。もともと神さまへの献げものは一律だったのに、金持ちが生まれると、彼らは人とは比べものにならないほど多くのものを献げるようになりました。そのほうが功徳があるというのでしょう。律法を細かく規定していったのも、同じ理由からでした。律法主義ということです。後期ユダヤ教が、一層そんな神さま抜きの傾向を強めていたことはいうまでもありません。彼はその典型的な律法主義者であったと言えます。彼をそこから解放して神さまに目を向けさせるためには、唯一、彼の拠り所である財産を放棄させることが必要でした。そこからの解放なしに、彼が望んだ「永遠のいのち」にたどり着くことは出来ないのです。イエスさまが十戒の後半部分だけを彼に問いかけたのは、その意図あってのことではないかと思われます。

 出立されようとする、メシアと目されるイエスさまに何人ものパリサイ人が同行しようとしているのを見て、自分にもその資格があると思った彼ですが、しかし、その自負が打ち砕かれ、メンツがこなごなになった無念さが見えるようです。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむつかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」「それでは、だれが救われることができるでしょう」「人にはできないことが、神にはできるのです」(24-27) イエスさまと人々のこの会話を聞きますと、ここでは、「神さまを見なさい」と言われていることが分かります。この若い役人にも、イエスさまの勧めの中心は、神さまとの関係を修復することだったのです。

 「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」(28)というペテロの自負には、だから褒美をという弟子たちの声が聞こえてきますが(マタイ19:28)、金持ちの役人が問いかけられたことに応えた信仰者の、しかし、陥りやすいわなを、ルカは自分たちのこととして受け止めたのでしょう。今、イエスさまは残りわずかな時間を弟子たちへの訓練に費やしているところです。イエスさまは言われます。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」(29-30) これは主の約束でした。それは恵みであって、断じて私たちの要求、教えを守ったなどという、私たちの功績が入り込む余地などありません。私たちもまさに、「神の国はこのような者たちのものです」(16)と聞かなければならないのです。そのように聞きたいですね。