ルカによる福音書

75 この時代に祈りを

ルカ 18:1−8
出エジプト 3:7
T 正義が失われて

 エルサレムに向かって南下しているイエスさまです。過越の祭りが近づいて、時間が迫っています。イエスさまは、弟子たちに教えなければならないことが、まだたくさんあると感じておられるのでしょうか。エルサレム入城(19:28以下)までに、10個の短く凝縮した教えが続きます。中にはルカが挿入した記事も含まれているのですが、うち2つ(17:12-19、17:20-37)はすでに見ましたので、残り8つを出来るだけ丁寧に見ていきましょう。今朝は18:1-8からです。

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された」(1)と、珍しく、冒頭からルカのコメントです。ルカは、この話は読者には難しいのではと、始めにコメントをつけました。もちろん、直接にはイエスさまのたとえ話へのコメントなのでしょうが、もっと奥深いものを感じます。ですからルカは、ここに何の説明らしいものも加えていません。これは、ルカの心の琴線に触れたそのままを、記事にしたもののようです。聞いてみましょう。

 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った」(2-5) 恐らく、実話をもとにしているのでしょう。このやもめが裁判官に訴えていたその内容は、何も記されていないので(ルカが削除した?)分かりませんが、彼女の相手とは「訴える者」(口語訳、岩波訳など)のことで、彼女が被告として、すでに裁判沙汰になっていたようです。恐らく民事裁判と思われますが、当時とても多かった遺産相続問題だったのかも知れません。それはともかく、どんなに優れた裁判官でも、審理中の事由にわきから口を差し挟むことは出来ませんので、彼女が訴え、この裁判官が重い腰を上げようとしたのは、上級審(地方の? サンヒドリンとは限らない)だったのでしょう。当時のユダヤの裁判制度は、現代に比しても遜色ないほど整備されており、法律も、モーセの律法をもとに何世代ものラビたちが歴史に誇れるものを作り上げていました。しかし、その高く賞賛される制度や規定も、全くその通りに実行されたかというとはなはだ疑問で、とりわけ、イエスさまの時代には、はなはだしく正義が失われていたというのが実情のようです。このたとえ話も、そのことを浮き彫りにしているのでしょう。


U 正義を執行されるお方は

 「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい」(6) 彼女は助けを求めて、この裁判官のところに日参していたのでしょう。「うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」と重い腰を上げたのは、まさに「不正な裁判官」そのものですが、そんな者でも彼女の訴えに耳を傾けました。その「不正な」ということをもう少し考えてみなければなりません。それは、彼個人というよりも、ユダヤ人社会が、裁判という本来あるべきところにまで正義を失ってしまったと、そのことを指していると聞くべきではないでしょうか。その問題の中心点をルカは、「神を恐れず、人を人とも思わない」と繰り返すことではっきりさせました。ユダヤ人社会における正義の欠如は、神さまとの関係が希薄になっていることに起因するのです。もっと端的に言いますと、神さまの民であり祭司の国であるはずのイスラエルが、神さまとともにある歩み方を見失ってしまった。「不正」はもはや、ユダヤ人社会全体にはびこっていると言っていいでしょう。そして、ルカは、増えつつある異邦人教会にも重ね合わせながら、教会がそんな落とし穴に陥ることがないようにと、警告しているのです。そしてそれは、私たち現代人にとっても中心的な問題ではないかと思うのです。今、私たちは、自分(自分たち)に都合の良い理屈だけを押し通そうとしています。アメリカがテロとの戦いという名目で仕掛けたアフガン戦争やイラク戦争に、多くの人たちが不条理を感じています。イスラエルが強力な軍事力を背景にパレスチナ人の領域を壁で分断したり、パレスチナ人地区への空爆を仕掛けていることも……。そんな不条理は、私たちの回りにもいっぱいです。派遣社員のリストラ問題、成人式で暴れ回る白虎隊スタイルの若者たち、それはまさに「神さまを恐れず、人を人とも思わない」生き方、神さまを無視した現代人の利己主義と言っていいのではないでしょうか。

 間もなく弟子たちは、正義が失われた中で助けを求める人たちがいる、そんな世界に出て行かなければなりません。彼らは神さまの正義を携えて出て行くのです。「注意して聞きなさい」「あの不正な裁判官ですら、彼女のために裁判をしようとしているではないか」「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(7-8a) イエスさまが教えたかったことは、彼ら弟子たちとともに「わたしもいる」ということでした。正義を執行する裁判官は、イエスさまご自身のことなのです。


V この時代に祈りを

 日ごとに混乱の度を増しているこの21世紀、そんな時代に向けて、私たちに出来ることは何なのでしょう。教会から、神さまの正義が「ある」ことを発信していかなければなりません。その神さまに目を向け、神さまのことばに耳を傾けて頂きたいと……。昭和20~30年代、敗戦で大きくあいたてしまった日本人の心の穴を埋めようと、アメリカからたくさんの宣教師がやって来ました。その多くは若く訓練不足のためか短期間で挫折し、帰国していきましたが、その時期、驚くべきことに、大半の日本人が福音を聞いたのです。中には訳も分からないまま洗礼を受けた人たちもいたようですが、しかし、「天地の創造主、全知全能の神さまがいらっしゃる」「イエスさまの十字架は私たちの罪を贖って、私たちを救ってくださる」と、日本中の人たちが神さまの恵みに招かれました。それは彼らの大きな功績ではなかったでしょうか。それなのに、戦後60数年経って、たくさんの教会が日本中に建てられ、牧師も日本人が当たり前になりましたが、今この日本で、一度も福音を聞いたことがないというケースが目立ち始めているのです。「教会に招いても来てくれない」「キリスト教と聞くと、何となく敬遠されて……」などなど、私自身もつい言い訳してしまうのですが、果たしてそうでしょうか。何年か前、家内が野外で子供たち相手にパネルを使って児童伝道をしていた時、学校帰りの中学生数人が立ち止まって話を聞き始め、やがて座り込んで最後まで福音を聞いていったそうです。私たちが沈黙するなら「石叫び出ずべし」(ルカ19:40)と言われた、イエスさまの熱い思いに応えていかなければと思います。

 不正な裁判官のたとえ話は、ユダヤ人社会に神さまの正義が欠如しているということでした。そんな人たちの世界に注がれていたイエスさまの目が一転して、その世界に遣わされようとする弟子たちに注がれました。神さまを見失って誰もが好き勝手な方向へと突っ走る不正な(この世の)パワーは、ともすれば、信仰者さえも巻き込んでしまいかねません。教会の世俗化は、現代に始まったことではなく、ルカの時代、すでにその芽が伸び始めているのです。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(8b)とあるイエスさまのことばは、ルカにとって、当時の教会への警告と聞こえたのでしょう。冒頭の彼のコメントは、このところで聞かなければなりません。失望せずに祈り続けることは、必ずや聞いてくださるお方の耳に届くのです。そして、それは何よりも、必ず訪れるであろう信仰(定冠詞が付いている)の危機に、普段の絶えせぬ祈りこそなくてはならぬ備えなのだと、現代の私たちへの、ルカからの悲痛な叫びにも似たメッセージであると聞きたいのです。