ルカによる福音書

74 恵みに立って

ルカ   17:20−37
ダニエル 7:13−14
T 神さまの御国は

 クリスマス、年末年始と、しばらくお休みしていたルカ福音書の再開です。今朝のテキストは二部に分かれており、第一部(20-21)はパリサイ人とイエスさまの短い会話ですが、恐らくそれは、ペレア地方巡回中のことではなかったかと思われます。その記事をルカはここに組み込みました。ルカは続く弟子たちへの教え(22-37)に対する適切な導入として、これを選んだのでしょうか。今朝のテキストは、イエスさまが何回も繰り返される「その日」を中心に語られますが、それは「イエスさまの時」であるというルカの中心主題で、そこに神さまのみ国が重ね合わされているようです。

 「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられた……」(20)と始まります。パリサイ人の神の国観は、バビロン捕囚(BC587)以後一つの終末思想として形成された、後期ユダヤ教の公式教説をそのまま引継ぎ、イスラエルの残りの者を救おうとするメシア王国が意識されていると思われます。その神の国は、異邦人支配から武力革命によって成立するもので、メシアはその指導者であると意識されていました。パリサイ人たちは、いち早くその傘下に加わることで身の安全を図ろうと、それがこの質問になったものと思われます。そう考えますと、イエスさまとの間に抜き差しならないわだかまりが生じていたのに、まるでそんなことはなかったように彼らがここでイエスさまに近づいて行ったのは、万が一にもこの方がメシアであるなら、このまま対立していてはいけないと考えたからでしょうか。彼らの歩み寄りは、万が一に備えての保険と言えそうです。

 イエスさまがメシアであるなら、神の国がいつやって来るか分かるでしょうと、彼らはイエスさまを試すような質問をしました。イエスさまの答えはこうでした。「神の国は、人の目で認められるようにして来るのではありません。『そら、ここにある』とか『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(20-20) これは、イエスさまのメシア宣言と聞いていいでしょう。「あなたがたのただ中に(あなたがたの間に−新共同訳)」とは、人となられたイエスさまを指し示しています。神さまの御国は、イエスさまが私たちのところに来られた時から形成され始めている、と聞かなければなりません。


U イエスさまはすでに?

 「形成され始めた」というのは、説明を要します。神さまの御国は、イエスさま来臨と同時に完成されたものとして姿を現わしました。しかし、それはまだ、「新しいぶどう酒」のような段階なのです。それは、発酵を重ね、次第に熟成されたものへと移行していくのですが、では、何をもって熟成(完成)されたと言えるのでしょうか。それはきっと、神さまの民たちを迎え入れた時なのでしょう。ルカはそれを、終末の、イエスさま再臨時のことと理解しました。ルカはその熟成までの過程を使徒行伝で描き、イエスさま再臨へと希望をつないでいます。彼にとって、イエスさまご自身の歩みと弟子たちに引き継がれたすべての活動は、「イエスさまの時」、すなわち神さまの御国の時に他なりません。続く第二部(22-37)では、弟子たちの活躍の足音が彼の耳に聞こえているようです。

 「汝等(なんじら)は人の子の日の一日を見んことを望む日来らん。されど目(ま)のあたり見ざるべし。かくて彼等(かれら)は見よ此処(ここ)に、或いは見よ其処(そこ)に、と汝等に謂(い)うならん。往(ゆ)く勿(なか)れ。そは電(いかずち)の、天の此方(こなた)より天の彼方(かなた)に閃(ひらめ)き照らす如く、人の子も彼の日に、その如(ごと)くあるべければなり」(22-24永井訳) 現代人には少しむつかしいかも知れませんが、手許にある訳の中で一番分かりやすいと思われますので、これを紹介しました。終末の混乱時にさまざまなデマが飛び交うのは、私たちも阪神大震災で経験した通りです。きっとその時、イエスさま再臨のうわさがいろいろな形で膨れあがっていくのでしょう。もはや無視することが出来ないほど、希望が失われているということなのでしょうか。しかし、民衆は確実に弟子たちの宣教の声を聞いていました。その中には、十字架におかかりになった筈のイエスさまが再臨するというメッセージもあり、だからこそ、先走ったデマが流布していたのでしょう。メシアたるイエスさまの再臨が、混乱期にさしかかっていたイスラエルにとって、一縷の希望になっていたのかも知れません。

 稲妻のきらめきは、乾期と雨期に分かれたこの地方では珍しいものではありません。以前、シリア砂漠をジープで横断した人の紀行文を読んだことがありますが、砂漠での稲妻は、まさに天の端から端まで一瞬にして輝き渡るそうです。そして猛雨。何につけても激しいようですが、イエスさまの再臨も、そのようであると言われます。救いばかりではなく、裁きも覚悟しなければならないのでしょうか。

 ところで、その「日」が原文では複数になっています。そこから想像するのですが、稲妻がきらめき渡るさまは、もしかすると、弟子たちの宣教活動に重ね合わされているのかも知れません。もしそうだとするなら、まだ隠されてはいますが、イエスさまの再臨はすでに始まっていることになります。あとは、イエスさまのお顔を拝する「日」を待つのみなのです。それも間近いのでしょうか。


V 恵みに立って

 「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません」(25) これは勿論イエスさまの十字架を物語るものですが、ルカはここからもう一つのこと、イエスさまは「捨てられる」のだと語っているようです。その強調でしょうか、同じことが26-37節にも繰り返されています。「人の子の日に起こることは、ちょうどノアの日に起こったことと同様です。……」 しかし! ノアやロトの時代は、このパリサイ人たち、37節の弟子たちをも含めたその時代の人たちだけに重ね合わされているのでしょうか。ルカはそれを、自分たちの時代にも重ね合わせているようです。しかし!!  ここを繰り返して読みますと、お金や「もの」ばかりに夢中になっている、現代がまさにその時代だと聞こえてくるではありませんか。終末期のさまざまな混乱は、神さまの目を無視した、そんな飲み食いから始まっていくと警告されているようです。イエスさまの再臨は、私たちを救いと裁きに分け隔てるものであると聞かなければなりません。

 「しかし」!!! ここに更に奥深いメッセージが語られます。それは、弟子たち、とりわけルカとその時代の教会にとって、特別な意味を持っていました。十字架の出来事は、何よりも、彼らを罪から救う神さまの恵みの中心でしたから、十字架に罪贖われた信仰者たちは、その恵みによってどんな苦難にも耐えることが出来るのです。身体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない、栄光の主も通られた苦難なのだから。これは、起こり来る苦難に間もなく直面するであろう弟子たちへのイエスさまの励ましに重ね合わせたルカの、すでに兆しが出始めている迫害と殉教を間近にした、異邦人教会へのメッセージなのでしょう。「人の子」という称号は、苦難を強調しているのでしょうか。彼の内には、殉教したステパノ(使徒7:54-60)のことが刻まれていたのではと想像させられます。ステパノは、石を投げつけられながら、神さまの右の座から立ち上がって、彼を迎えようとするイエスさまを見ていました。カイザリヤで、ローマへの旅立ちを待ちながらパウロとの日々を過ごし、福音書を執筆していたルカも、自分の殉教を覚悟していたのでしょうか。信仰者の苦難には、その先に希望があるではないかと、彼の励ましが伝わってきます。現代の私たちも、このことに無関係を決め込んでいてはなりません。ここには、終末の様子が語られているのです。近い将来、必ず苦難の時代が来るのです。その時、迫害や殉教が起こらないとどうして保証出来るでしょうか。何人もの牧師たちが獄中でいのちを落とした太平洋戦争中のことは、つい昨日のことなのです。しかし、主の慰めを思い出してください。裁きの座に着いて迫害する者たちを裁かれる(ここにはそのことも暗示されている)イエスさまは、その玉座から立ち上がって、凱旋する信仰者を出迎えてくださるのです。