ルカによる福音書

72 主のしもべとして

ルカ   17:1−10
エレミヤ 1:4−10
T 赦すことを

 ペレア地方をヨルダン川沿いに北上中のイエスさまの、これがペレア最後の記事なのでしょうか。もしかしたら、すでにペレアを出られ、ヨルダン川の西に渡っておられるのかも知れません。ここにはもはや、イエスさまにつき従っていた大勢の人たちの姿はなく、使徒たちを中心にわずかな弟子たちがいるだけです。パリサイ人たちもシンパの人たちも、それぞれの家へ帰って行ったのでしょう。イエスさまはこれを、弟子たちへの、是非ともしておかなければならない重要な訓練の機会と思われたようです。他の人たちが帰って行くのを待っていたかのように、イエスさまは弟子たちを教え始めました。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(1-2)

 この「つまずき」は、しばしばキリスト者の倫理に関するものと考えられてきましたが、それももちろん、十分に気をつけなければなりません。しかし、それ以上に問題なのは、パリサイ人たちの律法主義が民衆に与えたつまずきであって、それは、人々が神さまの恵みにあずかることを妨げるものでした。つまり、彼らの厳格な律法主義に見られる、「自分の正しさ」による他の人の疎外です。ルカも、それは大きな問題であると考えていたのでしょう。18:9以下(自分を義とするパリサイ人の祈り)にそのことを真っ正面から取り上げています。イエスさまは、弟子たちにとっての落とし穴はそこにあると考えておられたのでしょう。ここに言われる「石臼」は、ロバが動かす大きなひき臼のことですから、指摘された「罪」のその重さが伝わってくるではありませんか。

 「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(3-4) 弟子たちに「気をつけていなさい」と言われるのは、「パリサイ人の律法主義に陥らないようにしていなさい」と、抽象的な注意を喚起しているのではありません。イエスさまは、弟子たちがパリサイ的な「正しさ」という落とし穴に陥らないためには、「赦す」ことを覚える以外にないと思い極めておられ、それがこのような注意になったものと思われます。この「赦し」は徹底的なものでした。七度とはユダヤ人の完全数ですので、これは無限に赦し続けるということであり、神さまのご介入がなければ決してできないことです。


U 神さまの赦しを

 この「罪」ということを考えてみなければなりません。神学的なところはいつか機会があればということにして、それより、聖書がどう言っているのか見ていきたいと思います。ペレア地方での弟子訓練は連続したものでしたから、ごく近いところにそのヒントがあるようです。そうです、放蕩息子のたとえ話(15:11-32)にそれがありました。まず弟の場合からです。彼は、「お父さん。私は天に対して罪を犯しました。またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と告白しています。これは彼が、父(神さま)と子(自分)の関係を否定し、父から離れ、父なしに生きることを選んだということです。罪とは神さまを否定し、神さまなしに自分勝手に生きることを指しています。兄の場合には、父に隷属していることも罪に数えられるのでしょう。そこには絶え間ない不平(父への不信)が生まれており、しかし彼はそれには全く鈍感で、自分の正しさばかりを主張しています。弟の帰還をきっかけに、それらの問題が吹き出してきました。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と父親が図らずも言いましたが、罪とは、神さまの前における(自分の)死と(自己と神さまの)喪失であると言えるのではないでしょうか。キリスト教倫理におけるより具体的な罪は、その一つ一つが点検し直されなければならない(しばしば欧米文化の直輸入がある)と思いますが、それらは罪ということの原点から派生した一問題点にすぎません。ですから、その問題点だけを取り上げて、「もはや赦される望みはない」とばかりに騒ぎ立て断罪するのは、どうも、この兄の場合のように、自分に対してというより、他に向かってということのほうが断然多いような気がしてなりません。そちらのほうがずっと大きな問題ではないでしょうか。

 そして、この赦しには、「悔い改めますと言って七度あなたのところに来るなら」という条件がつけられていることも忘れてはなりません。神さまの前に自分の罪を認識(告白)する時、彼はただただ神さまからの赦しが欲しいと願っているのです。条件とは、そのことを指しています。赦しを伝える者は、それを自分への告白と取り違えてはならないでしょう。赦しを伝える者は、十字架の主からの委託を受けて神さまの赦しを宣言するのです。そのとき、その赦しが本物になると覚えておかなければなりません。


V 主のしもべとして

 使徒たちがイエスさまに言いました。「私たちの信仰を増してください」(5) 弟子たちは、人に躓きを与えるようなあり方を、信仰をもって克服できると考えたのでしょうか。それとも、イエスさまのその要求に応えることなどとても出来ないという自覚から、この願いが生まれたのでしょうか。いづれにしても、彼らの信仰理解には根本的な問題がありそうです。ここで、信仰・イエスさまを信じる信仰ということを考えてみなければなりません。きっとイエスさまも、弟子たちにその必要を感じておられたのでしょう。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(6)と言われました。からし種は非常に小さいものです。しかし、その小さな種も芽を出し、成長すれば、「木になり、空の鳥が枝に巣を作る」(13:19)ほどになるのです。同じペレアで、ほんの数日前に教えられた「神さまのみ国」のたとえでした。イエスさまは、信仰の大小をではなく、信仰のあるなしを問いかけられたのです。これも神さまのご介入があってのことであると、イエスさまの教えが伝わってくるではありませんか。私たち日本人にとって、信仰ということばのニュアンスには、「信じる私」という意識が強く、信心と同義語に考えられていますが、ユダヤ人にとってそれは、神さまの約束に「それは真実です」という同意と信頼を表すことばでした。真実なお方は神さまなのであって、そのことを認め、その方に頼る以外に他の生き方はあり得ないのです。イエスさまに「信仰を」と願った弟子たちも、そんな信仰の中に育ったユダヤ人たちでした。しかもイエスさまに出会って「あなたは神のキリストです」(9:20)と告白した者たちでしたから、このイエスさまの問いかけに、信頼すべきお方はこの方以外にないと、その原点を思い出したのではないでしょうか。

 そんな彼らに、イエスさまは言われます。「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕をしなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみなしてしまったら、『私は役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(7-10) 間もなく弟子たちは「イエスさまは主キリストである」というメッセージを携えて出て行かなければなりません。そんな彼らに、これは、主キリストからのはなむけのことばだったのではないでしょうか。イエスさまのしもべとして立つ。福音の使者としてそれは最高の名誉でした。なぜなら、ここには、御国での宴への招きと、「あなたがたにはわたしがついている」という約束と励ましがあるからです。私たちもこの主の旗印を掲げていたいではありませんか。