ルカによる福音書

71 何に聞くのか?

ルカ 16:14−31
詩篇  149:1−4
T 新しい生き方を

 「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」(14)と次の段落が始まります。前の不正な管理人のたとえ(16:1-13)は、この世の価値観であったと聞きました。イエスさまは弟子たちに、その価値観に捕らわれることなく、光の子として神さまを中心とする賢さを学んで欲しいと願われたのです。律法の守護者たらんと欲しながら、この世の賢さも100%身につけているパリサイ人たちが、イエスさまのお話の意図するところが分からない筈はありません。彼らは、ルカと同じようにそのお話を、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(13)と聞きました。その上であざ笑ったのです。<俺たちはみごとに、神さまにも富にも仕えている>と。「金の好きな」という表現は、「金に執着する」(新共同訳)、「欲の深い」(口語訳)と訳されていますが、必ずしも彼らへの不当なそしりということではありません。貧しい一般民衆からは、金持ちは神さまの特別な祝福を受けていると羨望されていました。しかし、そんな風潮にあぐらをかいていたのでしょうか。彼らは、貧しい人たちから搾り取る、やはり「欲深い」人たちだったのです。

 そんな彼らにイエスさまが言われました。「あなたがたは人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます」(15) ここに指摘されたように、彼らは、人の目を基準にしながら律法の守護者を気取っていたと言えるでしょう。「人に見られたくて、会堂や通りの四つ角に立って祈る」(マタイ6:5)とか、「彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつす」(同16)などは、まさにそんな彼らの生き方の典型でした。しかしイエスさまは今、「神さまの前で」という新しい生き方を示されます。それは、イエスさまが私たちのところにおいでになった目的でもありました。


U いづれの時代を

 そのことに関連してでしょうか。続くイエスさまのことばは、一見ばらばらで何の脈絡もないように見えますが、これは、まぎれもなく、イエスさまご自身のメッセージとしてルカが記したものです。聞いてみましょう。「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です」(16-18)

 ここにバプテスマのヨハネの名前が上げられたのは、イエスさま以前(律法)の終焉と、イエスさま以後(福音)の時代が到来したことを告げるためでしょう。バプテスマのヨハネはイエスさまの道を備えるために遣わされた(2:76)預言者エリヤ(1:17・マラキ4:5-6)と呼ばれましたが、その通りにイエスさまを指し示し、そして、イエスさまに新しい時代の旗手の座を譲って消えていきました。彼は律法時代の終わりを彩ったのです。しかし、人々はそのことには全く気づかず、まして、律法と福音の区別などつくはずもありません。彼をイスラエルからいなくなって久しい預言者、もしかしたら神さまから遣わされたメシアであろうかと、その回りに群がって熱狂的に担ぎ上げたのです。その熱狂ぶりは、ヨハネを担ぎ上げることで、神さまの御国に入る資格が得られるとでもいうようなものでした。そのヨハネがイエスさまに代わり、でも、そんなことには全くお構いなく、同じように今度はイエスさまの回りに熱狂的に群がっています。これが、「だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしている」ということではないかと思われます。

 メシアとまでは承認しませんでしたが、パリサイ人たちもそんな人たちと同類でした。彼らがイエスさまにあれほどの強い反感を持ったのは、むしろ、律法の偉大な指導者になってくれるだろうと、クールな装いで隠してはいましたが、熱狂的な期待を抱いていたからかも知れません。しかし、イエスさまはことごとく彼らの期待を裏切り、彼らの律法を破棄するような動きばかりをしています。彼らは、イエスさまが律法とは別の時代を築こうとしていることを感じ取っていたのでしょうか。言うまでもなく、パリサイ人たちは律法の時代を生き続けようとしており、しかも、その律法は、人間臭さのふんぷんとした「律法主義」でした。ですからイエスさまは、「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」と律法の弁護をされたのでしょう。「妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり……」も、彼らの律法観の誤りを指摘しています。彼らの道は、いよいよ神さまから遠く離れたところに向かっていると言わざるをえません。


V 何に聞くのか?

 イエスさまは、あざ笑ったパリサイ人たちに、律法時代終焉の宣言と福音時代の始まりを予告されたのですが、まだ、そのきっかけになった、この世の富という弟子たちも関わることになる大きな問題について話の途中でした。「不正な管理人」のたとえをもって、イエスさまはまだほんの入り口部分を話されたにすぎません。本題に戻ってイエスさまは、もう一つのたとえ(19-31)を話されます。今度は、弟子たちばかりでなく、パリサイ人たちを真っ正面に見据えてのお話です。

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」(19-22) これは、当時のユダヤ人社会の様子を伝えているのでしょう。きっと、聞いていたパリサイ人たちは、この金持ちのようではなかったかと想像します。彼らは、まるでこの物語に出てくる人物のように、貧しい人たちがどれほど悲惨な目に遭っていても動じることなく、それらは神さまから来たものだとしていました。ところが、イエスさまは、神さまご自身の目で、そんな風潮に否を唱えたのです。亡くなったラザロと金持ちが、かたや天国でアブラハムに抱かれ、かたやハデス(地獄)で灼熱の炎に苦しんでおり、あまりのつらさに金持ちは、「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」(24)と訴えます。アブラハムが、「私たちとおまえたちの間には大きな淵があって、それを越えることはできない」(26)と答えると、今度は、「ラザロを私の家に送って、兄弟たちがこんな苦しい場所に来ることのないように言い聞かせてください」(27-28)と願い、それも拒否されてしまいます。

 「アブラハムの子」というのが、この金持ちの唯一のよりどころでした。それはまさにパリサイ人たちの主張そのもので、だから彼らは御国に入る資格を持つと信じて疑わないのですが、その彼らは、貧しい者たちもアブラハムの子であることには全く頓着していません。きっと、ラザロが天国にいて、自分がハデスだなんて、納得しなかったのでしょうね。彼らの第一の問題点がそこにあります。彼らは律法の守護者を自称しながら、「アブラハムのふところに抱かれているラザロ」という、神さまの優しさを欠いていたのです。この物語の結末をお聞きください。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです」「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」(29-31) 富が問題なのではない。富に聞く(依存する)ことが問題なのです。聞くべきは、神さまのことばにでしょう。「律法と預言者」が並べられるのは、預言者が律法と福音の橋渡し役だったからですが、そこには、「福音(イエスさまご自身)に聞きなさい」ということが隠されています。彼らはそれを聞かなかったのです。聞きたくないというのが、きっと現代も変わらない本音でしょう。さて、私たちは?