ルカによる福音書

70 神さまに会う備えを

ルカ 16:1−13
アモス   4:12
T この世の子らは

 ペレア地方を北上中の、恐らく、前回とは別の町でのことと思われますが、イエスさまの回りをたくさんの人たちが囲んでいます。きっと、前回15章でイエスさまからたしなめられたパリサイ人たちも一部、加わっているのでしょう。「弟子たちにも」(1)とあり、これは、15章で話された放蕩息子のたとえに関連して、この世のマモン(富)にどう向き合うのかを教えられたものと思われます。そしてそれは、そばで聞いているパリサイ人たちをも視野に入れてのお話でした。

 「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された」(1) 管理人というのは、家の中で召使いを統括し、更に主人の財産を運用・管理するなど、商売の全般的責任まで任された職務と理解していいでしょう。ある意味で、主人よりも重い責任を負っていたのです。訴えとありますが、これはむしろ告げ口(口語訳、新共同訳)と言ったほうがいいでしょう。現代流に言いますと、同僚による内部告発ではなかったかと思われます。主人から会計報告など、資料の提出を求められた彼は、「主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするには恥ずかしい」(3)と、いろいろ考えた末、良い方法を考えつきました。まだ管理人の職にある間に、その権限を最大限に用い、今後の安定を図ろうというものです。彼は、債務者たちを呼んで言いました。「油100バテの借用証文を50バテと書き直しなさい」(5-6)「小麦100コルの借用証文を80コルと書き直しなさい」(7) 1バテは約37g、1コルは約370gですから、100バテも100コルも、ものすごい量です。それほどのものを、この管理人は自分の裁量で動かしていたのです。主人はといえば、商売の一切を彼に任せ、おそらく、書き直す前の借用証書にも関与していませんでしたから、たとえ書き直しても、その不正を見抜けなかったでしょう。なぜ分かったのか、それは、その辺りのことに詳しい者(恐らく同僚)の告発があったからです。そうしますと、告発者自身の動機も問われなければなりませんね。そこには、彼を斥けて管理人になりたいと狙っている野心家、そんな人物像が浮かんでくるではありませんか。そんなことを想像しますと、主人が「こうも抜けめなくやったのをほめた」(8)とは、もともとその有能さを買っていたわけですから、この不義の管理人の解雇を撤回し、その職を彼に継続させるといった、実を伴う言い方と思われます。口先だけで「ほめた」のではないのですね。悪知恵もこうなると立派なものです。


U 光の子として

 このたとえを話されたイエスさまは弟子たちに、神さまから委託されたみ国の管理者としてその賢明さ(断じて不正をということではない!)を学んで欲しいと願ったのでしょう。その賢明さとは、この管理人が取った態度とは全く正反対の、キリスト者として立つべきところに立たなければならないという根本的な姿勢のことでした。イエスさまの締めくくりのことばをお聞きください。「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」(8) この主人も管理人も、「この世」に属する者たちです。「光の子」とは、恐らくこのお話を聞いている弟子たちを指しています。その対称的な言い方から、「この世」を暗やみと意識しているようです。イエスさまにとって、この主人も管理人も同類なのです。きっと主人は、今まで通りということではなく、チェック機能を付けてこの管理人をその職に戻したのでしょうが、もちろん、彼の使い込んだお金を弁済させた上でのことにちがいありません。そして、このお話を聞いていた弟子たちも、少し前まではこの世の子らだったわけですから、イエスさまのこのお話を十分理解できたのではと思われます。しかし、彼らが本当に理解しなければならないのは、この世の知恵ではなく、光の子としての立ち方でした。しかも、この世に関わる光の子としての立ち方です。

 イエスさまの教えが始まります。「そこで、わたしはあなたがにた言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで、他方を愛したり、または、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(9-13)


V 神さまに会う備えを

 とても難解なところで、立ち往生してしまいましたが、何としても見極めなければなりません。9節の「不正の富で、自分のために友をつくれ」とあるところです。どういうことなのでしょう。「不正」とは、16:1以下のたとえに出てくる「不正な管理人」に冠せられたタイトルを引き継いで、この箇所全体のキイワードになっているのでしょう。その「不正な管理人」の「不正」とは、「この世」のことでした。これは人間社会のごく普通の営み全般を指し、特に「悪い」という概念を強調しているわけではありません。旧約偽典エノク書に「『……私たちのいっさいの罪は公正に数え上げられることでしょう。』彼らはまた彼ら自身に向かって言うであろう。『わたしどもの魂は不法(不正)の資財に飽きている。しかし、これは、わたしどもが陰府の烈しい炎に落ち込むのを防いではくれない』」(63:9-10)とありますが、公正が神さまを、不正が人間を指していると聞きますと、「不正のマモン」という言い方は、ごく普通の表現だったと頷けます。人は神さまの前に、罪ある者として立つ以外にないのですから。そこで、思い切って「不正」ということばを省いてしまいますと、この部分がいくらか見えてくるようです。

 「富」もこの世のものですが、弟子たる者はこの世に召し出されたのです。この世の富をどう用いるのか、そのことが問われているのでしょう。「友をつくれ」と、それはまさに、イエスさまを信じる者たちを確保していく、伝道者の働きを指しています。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19-20)というイエスさまのご命令を思い出させてくれるではありませんか。人々を光の中に連れ戻す、それは、まさに「光の子」にふさわしい働きでした。「富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(9)と、その働きの結末が神さまの最高の恵みで締めくくられるのだと、これは、イエスさまの約束と聞こえてきます。「富がなくなったとき」とは、この世と決別したときのことでしょうか。殉教を暗示しているのかも知れません。パウロが最後の手紙で、「私は戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠が私を待っているばかりである」(Uテモテ4:7・口語訳)と言いましたが、そんな生き方を志したいですね。

 続く11節以下で、これはマタイの山上の垂訓を引用しての(6:24)ルカのメッセージと思われますが、光の子として召し出された者たちに唯一必要なことは「忠実」であると、自分に重ね合わせ、まさにその不足するところを言われたと聞こえてきます。華々しいスタンドプレーはいりません。ただ、神さまのことばを聞き、取り次ぐだけでいいのです。忠実にとは、神さまのことばに、という意味なのでしょう。預言者アモスのことばに、「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)とあります。これこそ今、私たちのこの時代に求められていることではないでしょうか。