ルカによる福音書

7 主はすばらしいことを

ルカ  2:8−20
イザヤ 12:1−6

T 羊飼いたちの登場

 「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」(2:8)と、イエスさまご降誕の記事に、この地方にいた羊飼いたちに起こった出来事が加えられます。

 ベツレヘムの町が小高い岩山の上に造られていた、と前回触れました。遠くにエルサレムが見える、見晴らしのいい東端の一角、聖誕教会の隣りに面した広場から下を見おろしますと、ほとんど緑がないのに「羊飼いの野原」と呼ばれる殺風景な野原が広がっています。今でも、その殺風景な野原で、羊飼いたちが同じように羊の放牧(きっと野宿も)をしていました。羊飼いたちは、何人もの人たちの羊を預かって放牧しているプロなのでしょうか。ヨークシャーの白い巻き毛の羊を見慣れた日本人には、黒や茶の混じった山羊のような何十頭という羊の群れが、羊飼いの持つ長い杖一本で誘導されながら移動していく光景は、まるで別世界に入り込んだようで、見ていて飽きません。現代にも生きているその光景は、恐らく、アブラハムの昔から続いてきたと思われます。

 その「羊飼いの野原」で羊の番をしていた羊飼いたちのところに、主の使いがやってきました。「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです』」(9-12) 主の栄光が周りを「照らした」とありますので、この「主の使い」が光り輝く有様で彼らのところに現われたのでしょう。それは「主の栄光」のためでした。御使いは主に遣わされて来たのだという証言と聞こえます。この御使いがガブリエルかどうかは分かりませんが、ザカリヤとマリヤに現われた時の様子に重なるところを感じます。彼は「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」と語り始めます。「恐れることはない」とは、ザカリヤやマリヤの場合と同様に信仰の勧めと聞いていいでしょう。


U 遠く離れた者たちに

 細かなことを言うようですが、一つのことを見ておきたいと思います。「この民全体のため」というところですが、これを厳密に再現しますと、《すべての+定冠詞+民(単数)》という言い方で、定冠詞を訳すかどうかで「民」の内容が変わってきます。新改訳のように聞きますと「この民」はユダヤ人に限定されてしまうと聞こえるのですが、新共同訳や岩波版は「この」を省き、口語訳は「すべての民」と論点を明確にしています。ところで、この場面の主役「羊飼いたち」のことですが、イスラエルでは土地から産物を得る職業が最も尊いと言われてきました。羊飼いなど、さしずめ尊い職業のNo.1だったのでしょうか。パリサイ人、律法学者、地主といった富者たちは、別に名目上の職業を持っており、「羊飼い」が圧倒的に多かったようです。もっとも彼らはたくさんの羊を所有しているだけで、世話は他の人たちに押しつけ、自分では羊のにおいを嗅ぐことさえなかったようですが。実際の羊飼いたちは、最下級の人たちと見られていたのです。こう考えてきますと、ユダヤの羊飼いたちの大半が、アラブ人など外国人ではなかったかと感じられてなりません。現在でも多くのベドウィンと呼ばれる外国人たちが、この地方大半の羊飼いを引き受けているようです。ルカは何も触れていませんので、想像でしか言うことができませんが、イエスさまのご降誕に関わった人たち、2:1-7に出てくる人たちは間違いなくユダヤ人でしょう。ところが、ルカはその無関心なユダヤ人への反発もあってか、羊飼いの記事をわざわざ挿入しています。もし彼らが、ルカ同様に異邦人であったとしたら、イエスさまの最も中心のメッセージを彼らに聞かせていることも頷ける気がするのです。そして、羊飼いたちが外国人であるとしたら、「民」がユダヤ人という限定ではなく、「すべての民」という私たち日本人までも含まれる者たちと理解できるのではないでしょうか。イエスさまの福音は決してユダヤ人たちだけに語られたものではなく、異邦人こそ主役なのだと、これが異邦人ルカの思いなのでしょう。現代の、しかも日本人という時間的にも空間的にもこんなにも遠く離れた私たちは、決して部外者ではないのです。羊飼いたちが登場してきた最大の理由が、そこにあるのではないかと思うのです。


V 主はすばらしいことを

 彼らは神さまからのメッセージを聞きました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と。彼らがそのメッセージを、神さまからのものだと受け止めたことは間違いないことでしょう。預言者は途絶え、祭司も宗教儀礼の執行者に成り下がり、王は異邦人ヘロデという当時のユダヤで、神さまからのメッセージを取り次ぐ人たちは律法学者であり、シナゴグを取り仕切るパリサイ人たちでした。しかし、彼らは神さまからのメッセージを聞いてそれを取り次ぐわけではなく、ひたすら先人たちが造り上げた「〜してはならない」式の律法を振りかざすだけでした。そのような中で、神さまからのメッセージが、貧しく、指導者でもなく、もしかしたら外国人だったかも知れない、羊飼いたちに語られたことに、神さまの不思議なご計画を感じます。神さまは、まず第一に、神さまから遠く離れていると感じている人たちに、救いのメッセージを語られました。そして、彼らはそのメッセージを受け止めたのです。

 「ダビデの町」 彼らが野宿していたところから見上げますと、すぐのところにその町があります。彼らにとっては、珍しくもない田舎村の一つでした。しかし、「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(12)と聞いて、彼らはその町に走っていくのです。天の大軍勢が現われ、「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(14)と壮大な賛美をしたことも、彼らの思いをかき立てたのでしょう。天使に天の大軍勢、そして、響き渡る大合唱……。もう彼らには驚きも恐れもありません。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」(15) わくわくしながら丘の上へと駆け上って行きました。天の大軍勢の賛美、それはきっと、何千人もの人たちが歌う「ハレルヤコーラス」に似ていたのでしょうか? いや、それ以上の迫力だったろうと想像します。彼らが何語で賛美をしていたのか、神さまの栄光と地の平和という両輪こそイエスさまの中心だなどと、神学者の理屈みたいなことはどうでもよく、彼らはその崇高な賛美の中心部を明確に理解し、記憶していたのです。ただ、イエスさまご降誕の時に、私たち人間には垣間見ることの出来ない、神さまの世界が開けたとだけ覚えておかなければなりません。私たちにとっても、神さまにとっても、それほどに特別な出来事が起こったということなのです。

 小さな田舎村です。彼らはイエスさまがお生まれになったところを探し当てました。天使が言ったことは本当だったのです。彼らはきっと、あの東方の博士たちのように(マタイ2:11)、ひれ伏して幼いイエスさまをあがめたのではないでしょうか。そして、彼らは人々に、見たこと聞いたことを証言しました。彼らはイエスさま最初の証人になったのです。町のあちこちでという印象を受けます。その証言を聞いた人々は驚きましたが、しかし、イエスさまのところに駆けつけて来た者のことをルカは全く触れていません。ユダヤ人たちは誰一人、イエスさまのご降誕に関心を寄せる者がいなかったのです。まるで現代社会のようですね。しかし、そのような社会からはみ出した貧しい羊飼いたちは、喜んで戻っていきました。「主はすばらしいことをされた」(イザヤ12:5)と、イエスさまが私たちのところに来られたことを、私たちも彼らとともに賛美しようではありませんか。